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ギフテッド道徳教育

ギフテッド教育というものが、近年の日本の教育においての大きなテーマの一つだと感じています。何かしらに特出した才能をもつ子供に対して、特別な教育を与えて、より優れた人材に育てようというものです。最近はその面以外にもギフテッドの学習面や社会的な困難さに焦点をあてて、教育のサポートをしようという意味で、ギフテッド教育が使われたりもしています。
この記事ではそういったギフテッド教育について、必要性や意味などの考えを書きました。ギフテッド教育はもちろん、教育に関して興味をもつ人向けの記事です。

教育とは何か

道徳教育論

まずギフテッド教育について考えるにあたって『教育』とは何かということから改めて知る必要があります。ここで、現代の教育論の定義を知るにあたって、教育論の古典を参考にします。今回参考にするのはエミール・デュルケーム著『道徳教育論』です。

エミール・デュルケーム wikipediaより

エミール・デュルケームは現代社会学の開祖でありながら、教育学にも精通し、優れた教育論を展開した人物です。この本では「教育は、生まれた地域や経済性によって格差を生まないよう、低い者を上げるもの」といった内容が論じられています。要するに、教育とは優れた人材を育てるためのものではないということです。この教育論は現代においても通ずるものでしょう。

ギフテッド”教育”という言葉

ところで先述したように、”ギフテッド教育というのは優れた者をより優れた者にする”というようなものでした。この使い方は、原初における教育の定義とは乖離しています。定義は変わっていくものだ!といわれればそうなのかもしれませんが、私はギフテッド教育という言葉に少々違和感を感じています。

社会と教育

少し話がそれましたが、ここからもう少し道徳教育論の内容から、教育について深掘っていきます。デュルケームの主張では教育の淵源は社会(社会学)にあるとしています。"教育とは人間社会で生きていくための知恵や経験を育むものである"ということです。これはデュルケームだけでなく、教育哲学者のジョン・デューイ、福沢諭吉、日本の創価学会初代会長(近年は評判が悪いようですが笑)の牧口常三郎など、多くの者が同様の主張をしています。道徳教育論では専門性の高い教育(例えば高度な科学などの知識)についても論じられていて、”専門性の高い教育は必要ではあるが当然それが全てではないし、それだけでは不十分であり、それらにも共通の基盤があって、それがある時点で分化したものである”としています。そして、その”共通の基盤作りこそ真の教育である”と。この主張をギフテッド教育にも応用してみると、ギフテッドは高度な学問を理解する能力がありますが、ギフテッド教育によって、ある専門分野にのみ焦点を当てるのは不十分だということがいえそうです。

社会性と道徳

特にデュルケームは社会性や道徳面を学ぶことに関しては、”若い時分における教育が重要”だとしています。子供の時に道徳面を学ぶことが大事だということに異論のある人は、いないと思います。しかし私はその事実があってなお『ギフテッド教育』を考察している人たちは、知能や自由な学問を重視しすぎていて、道徳を軽視しているように感じます。

また、社会性や道徳性は外的なものであるとデュルケームは論じています。これをギフテッド教育に当て嵌めると、どれだけ知性のあるギフテッド児だとしても、彼らは必ず外部の存在(先生や家族、友人など)によって社会性や道徳面を学ぶ必要があるということがいえそうです。道徳心は内的なものだ、という意見もあると思います。この意見は誤りがあります。道徳性は環境によって、全く異なるものだからです。たとえば殺生を例に考えてみます。現代の人間が人間を殺めてはならないのは、人間社会でそのようにできているからです。しかし、昔はどうだったでしょうか。おそらく現代ほど人間同士の殺生に関して、厳しく扱っていなかったでしょう。また、たとえば落とし物の財布を拾った際、どう行動するか。これは個々人の違いも少々ありますが、国ごとに大きく異なりますよね。それは国それぞれの社会性が存在するからです。要するに、時代や地域1つとっても社会性や道徳心に違いがあるわけです。ということは、これらは個人の内発的な部分のみで成長し完結する存在ではないわけです。

‐でもまわりの世界がこうであるかぎり、これ以上いい人間にはなれません‐

いつまでも美しく

道徳と科学

ここで道徳(倫理)と科学が関係する2つの例をあげます。なぜ科学を例に挙げたかといえば、発展する速度が他に比べて速いため、後述する道徳との均衡が崩れやすいと感じるからです。

CRISPR

1つはCRISPR(クリスパー)です。2020年にノーベル化学賞を受賞したテーマで、かなり簡単に言うと遺伝子を操作する技術です。この技術によって近い将来、特定の病気にかからなくなるようにできるようにすることが期待されています。しかし大きな問題がCRISPRにはあります。それはこの科学技術を使用することで、髪や眼、肌の色から、身長の操作や知能の上下、筋肉の獲得のしやすさ等の様々なものが操作できる点です。知能の上下は大きな資本格差を生む可能性が問題視され、体格に関してはスポーツにおける公平性の問題があげられます。体格操作はドーピングと同程度に黒だと私は考えています。
このCRISPRは現在の医学倫理において最も重要なテーマの1つに置かれています。CRISPRはジェニファー・ダウドナたちが研究したもので、彼女たちはCRISPR技術を使用するうえで倫理がとても大事だと考えています。

ジェニファー・ダウドナ wikipediaより

中国で許可なく双子の新生児に使われたことで大きな話題にもなりました。いま現在、そのような勝手な使用は全世界で禁止されています。要するに、医学や化学の専門においても道徳や倫理が密接に関わるということです。

もう1つは核です。2024年に、日本の原爆被災者の方々や、それに関係する方々がノーベル平和賞を受賞しましたね。日本では特に重要なテーマである核です。原子爆弾の生みの親とされている一人にロバート・オッペンハイマーがいます。歴史において極めて重要な人物です。

ロバート・オッペンハイマー wikipediaより

この人物は原子爆弾の製作から日本への投下まで携わったとされる人物です。彼は非道だと思う人もいるかもしれませんが、彼は道徳を知らなかったわけではありません。むしろ彼は倫理文化学園という場で専門的に学んでいます。また、彼はハーバード大学で化学を学び、飛び級したうえで首席で卒業した天才です。そんな彼がなぜ原子爆弾の開発にかかわったのでしょうか。

2つの事例から学ぶ

ロバートオッペンハイマーは学生時代に倫理学を学びはしましたが、以後の彼が身につけた化学的能力が彼のもつ倫理能力を超えた結果、原子爆弾の製作、投下に至ったと私は理由の1つに考えています。もちろん時代背景も重要ですが。彼から学べることは、”道徳はある一時点においてのみ学ぶだけでは不十分だ”ということです。

続いてダウドナたちです。何故とてつもない影響力を持つCRISPRが、オッペンハイマーの事例や他のテクノロジーに比べて問題が発生していないかといえば、ダウドナたちが倫理観と化学研究を同程度に重視したからです。彼女たちはこの研究をするにあたって、未来における倫理面の問題をとても注意深く考えていました。現在ダウドナは、CRISPR研究の時間と同程度の時間を倫理面に関する時間に割いているそうです。それは彼女自身の倫理面の成長もありますが、世間に対しても発信し、現代人の倫理面の重要性を訴えています。また、実は彼女はロバート・オッペンハイマーと同じ、カリフォルニア大学・バークレー校の教員です。彼女はオッペンハイマーの事例に特に注目し、彼の発言などを調べたりして多くを学んでいるそうです。彼女から学べることは”道徳倫理は生涯を通して成長させる必要がある”ということと”過去の事例から学ぶ”ということです。

倫理とテクノロジーでいえば、近年話題になっているSNS等による発言の問題に関してもそうです。テクノロジーの発展に対し道徳倫理が追いついていないことによって生じている問題だと私は考えています。

ビル・ゲイツの例から学ぶ

PCを世界的に普及させた天才であるマイクロソフト創業者のビル・ゲイツは、近年のSNS等の誤情報問題(インフォデミック)に対して2024年に以下のような発言をしていました。

But I feel bad that I …
I don't have the … the solution.

NetFlix / What's Next?

彼ほどの頭脳の人間であれ、1度先行してしまったテクノロジーなどは止めようがなくなります。「道徳倫理をあとから身に着ける」では間に合いません。この点をギフテッド教育に関係する人は今一度よく考えてみてください。ギフテッド児の知的好奇心に基づいた学習能力にフォーカスし、好きな学問を好きに学ばせるだけでは、教育とはいえません。


私の考察

高度な専門知識の教育

もし専門性の高い知識を教え込むのであれば、それに付随した道徳面の問題を学ばせるのが適当だと私は思います。たとえば科学について学ばせる際にはそれに伴って起こりうる問題を、歴史について学ばせる際には争いの根源を深く考察させたり、といった具合です。「誰が何をした」などの学びの表層的な楽しさのみ(いわゆるお受験的な勉強)を教え込むのではなく、それらの深層まで入り込んで、多角的な視野と内面的な成長を培っていただければと思います。

家庭と教育機関

ここで少しデュルケームの話に戻りますが、先述したように、デュルケームは”学びには基盤が重要”だと論じていましたが、”その基盤とは道徳学である”としていました。要するにデュルケームの主張では、”あらゆる専門分野を学ぶ際には、まず、専門分野に分化する前の基盤が必要であり、その基盤の最たるものは道徳である。したがって道徳学は何よりも先に学ばなければならない”ということです。私は彼のこの主張に賛成です。道徳を教えるのは家庭でもできるという声が聞こえてきそうですが、家族は学校に比べて集団性、社会性に乏しい点があり、社会と教育、道徳は強力につながっているので、家族という小集団よりも大人社会の縮図ともいえる学校という場のほうが、一集団社会としての特性に優れています。なぜそういえるのか。社会性とは少数より多数の集団であるほうが当然複雑だからです。これはデュルケームの著書『社会学的方法の基準』にも書かれています。現代の人間社会はオンライン化が進み、他者とのつながりがより多くなり、極めて複雑になっています。家庭や小集団というコミュニティでしか道徳を学んでいないければ、多人数で複雑な現代社会に適応することは、学校というより大きな集団で育った子供より難しいでしょう。なので家庭で道徳を学ぶより学校などのほうが適していると確信しています。MENSA会員をはじめ、多くの社会人ギフテッドが社会に馴染めないのも知性面のみならず、この点が原因の1つにある気がしています。私は多くのギフテッドの人と会話しましたが、コミュニケーションに問題を抱える人は知性の面だけが問題ではないように感じました。

ギフテッド児における、社会性と道徳面の教育の難点

ギフテッド教育をおこなうにはどうしても統計学上、小集団になってしまうので、本来その学年が持ちうるべき道徳力をもてなくなる可能性を私は危惧しています。ギフテッドの定義であるIQ130は人口の約2.2%です。たまに「100人に2人もいるなら多い」と主張する人がいますが、多ければ多いほど学ぶことができる道徳をギフテッド児のみでおこなおうとする場合、100人に2人はとても少ないものです。このある種の制約の中で、道徳教育を満足に施すのは非常に難しいです。この点は”ギフテッド教育者とギフテッド児で共に力を合わせて陶冶していくしかない”と私は現状考えています。
ちなみに人数の障壁を多少取り除くことができるオンラインでのコミュニティは、私はあまり良い案だとは思いません。物理的な、身体的なコミュニケーションは生物にとって極めて大事なものだと思うからです。オンラインでは本質的な友情や愛情は学べないと思っています。そしてそれらが学べなければ、真の道徳も学べないでしょう。


まとめ

第一に、現代における学問的専門性の学習は、社会性や道徳倫理の学習に優先してはならない。
第二に、その人間のもつ道徳倫理の能力の成長に比例する程度に、学問的能力の成長を合わせることが重要。
第三に、ギフテッド教育を終えたあとも、自身で生涯において道徳心を成長させ続けるように、教育する必要がある。

ヒポクラテス、アリストテレス、アダム・スミス、エミール・デュルケーム、ジョン・デューイ、ロバート・オッペンハイマー、そしてジェニファー・ダウドナと、歴史上で重要な人物たちの多くが専門分野を問わず、社会性や道徳倫理の重要性に重きを置いていました。それらはギフテッド児が将来どんな専門の道に進むのであれ、重要だということの証左といえます。

ギフテッドの知的能力の発達は非常に速いので、実際には極めて困難なもののだと思います。ですが教育者は諦めず、ギフテッド児の素晴らしい能力を社会の正しい方向で発揮できるように教育していただけたらと祈っています。


おわりに

この記事では「教育とは何か」からはじめ、道徳の重要性、ギフテッド教育について書きました。専門性の高い学習はギフテッド児において、とても魅力的で楽しいものです。しかしそれだけでは不十分だということ、そして、それを教えることがギフテッド教育では大事だということが伝われば幸いです。この記事ではギフテッド教育にフォーカスしましたが、一般教育についても道徳教育が同然必要だと思っています。

デュルケームに関するものは、私が今回のギフテッド教育を考察するにあたって、個人的な解釈をしたものです。私は専門的にデュルケームを学んだわけではありませんので、都合の良い解釈をしている部分があるかと思います。その点はご容赦ください。


参考文献


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