『「狂言三代の夕べ」と日本のB2Bビジネスの限界』(日本の歴史)
2023年1月26日は文京区シビックホール(市民ホール)のこけら落としで、野村万作、萬斎、裕基の3代による狂言を観覧してきた。
前半は『三番叟』(さんばんそう)という五穀豊穣を寿ぐ(ことほぐ)舞になる。特にストーリーはなく、足拍子が多い舞だ。演じたのは若き野村裕基だ。
後半の『靭猿』(うつぼさる)は、猿の皮を自らの矢を入れる筒(靭)に貼りたいという大名と子猿を連れた猿曳とのやりとりの舞だ。大名に92歳の野村万作、猿曳に野村萬斎が演じる。
狂言ははじめてみたが、猿楽から発展し、能と狂言は分かれていったという。能は怨念をもった幽霊が出演し重い(悲劇)ため、その間に演じられるのが笑いを誘う狂言(喜劇)という位置づけのようだ。
能と比較すると、システムが自由なのが狂言になる。
観阿弥、世阿弥が確立した「複式夢幻能」というシステムは、物語が前半と後半に分かれていて、後半は、前半に登場した人物のみる夢が舞台上で演じられる形式だ。世阿弥が確立したシステムだが、今でも演じられ続ける定型システムだ。
これによって、能は量産が可能になった。平家物語などの文字文学をヴィジュアル化することになり、人間の深層心理を演ずる演劇となった。能には創作劇はなく、源氏物語、平家物語、知られた物語を次から次へとヴィジュアル化した。
狂言にはこれがない。
今回の野村家三代が出演する二つの演目にはまったくパターンはない。それぞれが違う流れになっている。
内田樹の『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋、2002)を読んでいたら、ニューチェによるギリシア演劇におけるコーラスの分析と比較して、次のことがまとめてあった。
つまり、野村家三代は、野村万作の見ているものを、野村萬斎は見る。野村萬斎の見ているものを裕基が見る。これによって、時代環境により変化し、自らの芸が不易流行となる。
一方、B2B化してしまった日本企業を比べてみよう。
さらに、B2B企業内で、働く社員が上司の方しか見ていなかったら、時代とともにビジネスはシュリンクするしかない。大きな環境変化が起きた途端に、対策すら思い浮かばないことになる。
多くの伝統技芸が、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化してしまった。
B2B企業化してしまった現在の日本の将来を考えるとき、技芸の伝承システムが参考になる。