映画『きみの色』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

ルイ君は緑で、きみちゃんは青

「合宿」の夜、人に色が見えると告白したトツ子の顔はロウソクの炎に照らされ赤く染まっていた。
赤(R)、緑(G)、青(B)、つまりは光の三原色で、全てが混じると白になる……

映画『きみの色』(吉田玲子脚本・山田尚子監督、2024年。以下、本作)はしかし、それぞれの色は「綺麗」だけれど不完全で(だからこそ綺麗なのだが)、故に、白にならずに、繊細な「あわい」になる。

高校生のトツ子(声・鈴川紗由)は、人が「色」で見える。嬉しい色、楽しい色、穏やかな色。

そんなある日、同じ学校に通っていた美しい色を放つ少女・きみ(高石あかり)と、そして音楽好きの少年・ルイ(木戸大聖)と古書店で出会う。

周りに合わせ過ぎたり、ひとりで傷ついたり、自分を偽ったり-。

勝手に退学したことを、家族に打ち明けられないきみ。
母親からの将来の期待に反して、隠れて音楽活動をしているルイ。
そして、自分の色だけは見ることができないトツ子。
それぞれが誰にも言えない悩みを抱えていた。

よかったらバンドに、入りませんか?

バンドの練習場所は、離島の古教会。
音楽で心を通わせていく三人のあいだに、友情とほのかな恋のような感情が生まれ始める。

わたしたちの色、わたしたちの音

やがて訪れる学園祭、初めてのライブ。
観客の前で見せた三人の「色」とは。

本作公式サイト「Story」
(声優名は引用者が追記)

私はアニメに詳しくないが、山田監督といえば「脚の演技」だろう。

アニメーション作家としての山田尚子の独創性としてまず挙げられるのは、キャラクターの身体同士のきめ細かい相互作用からエモーショナルな空間を立ち上げる、その冴えわたる感性である。しばしば彼女の作品に登場する人物は、物語を進めてゆくはずの上半身がフレームアウトされ、脚が心理を代理し、もっともスクリーンを豊かに活気づける。
ただし、画面を息づかせるその方法は、細田守や湯浅政明などのように、スクリーン上でキャラクターを躍動させるのとは真逆のアプローチであって、山田アニメにおける人物の心の機微は、きわめて繊細な運動を通して表現される。とりわけ脚によるコミュニケーションは卓越している。けれども、それはこれまでの映画史で何度も繰り返されてきた、男性観客のまなざしを想定したエロティックなイメージでは決してない。女性の身体を見世物にすることなく、豊かなキャラクター同士の関係を形づくる存在として脚は描かれるのだ。山田尚子のアニメーションを観る者にとって、彼女の脚への偏執的な拘りは、いささか常軌を逸しているとすら感じられるかもしれない。けれども、それは山田尚子にとって必然的な表現手法だといえる。彼女のアニメーションにおける脚の運動は、人物の心情を、表現や台詞とはまったく異なる仕方で註釈し、雄弁に物語るからである。

北村匡平・児玉美月著『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(フィルムアート社、2023年)

本作でも、随所で素晴らしい「脚の演技」が見られる。
退学してしまったきみの事を聞きまわっている時の階段の踊り場、初めて来た島の岸壁で左側にいるルイと右側にいるきみに話しかける時のトツ子のステップ、夜の「しろねこ堂」の表にあるベンチに並んで座るきみとトツ子の脚、ライブで盛り上がる生徒やシスターの間をぬって会場を後にする時のシスター日吉子(新垣結衣)の脚、ライブシーンの後一人校舎を出てバレエを踊ろうとするトツ子の最初のステップ……

脚はもちろんだが、本作で目を引くのは「不自然なカメラ位置、カット割り」である。
主要3人において、彼女らがセンターに来ることはなく、ほとんどの場合、(バストアップで)右か左に配置され、反対側に大きな余白ができている。
私は山田作品に詳しくないが、これは恐らく本作特有のものだろうというのは、山田監督のインタビュー記事から察することができる。

「映画を見てくれる人を信頼し、余白を大きく。そんな作りになった」

2024年8月23日付朝日新聞夕刊 山田監督インタビュー記事

ついでに言えば逆に、顔のアップはアニメだけでなく実写を含めた一般的な映画では考えられないほど異様に寄り過ぎていて、余白がない。
これは、人物に寄り過ぎたカメラをとおして、観客が人物の内面を深く覗き込む効果を生む(そこに内面的セリフがないのは、覗き込んだ観客個々が自身の心情を重ね合わせて共感させるためで、だからそこで人物が何を考えていたのかは観客個々で違うはず)。
つまり本作は、余白が多い俯瞰か、余白が全くない異様な顔のアップ(と脚)で構成されていると言ってもいい。

それはともかく、「不自然なカメラ位置、カット割り」の作用が究極に達するのが、教会の椅子にトツ子とシスター日吉子が並んで座って会話するシーンだ。
スクリーン向かって左にトツ子、右にシスター日吉子という位置で会話する2人を、山田監督は同じフレームに収めず、1人ずつ別に撮る。しかし、そのカメラ位置は不自然で、トツ子は右、シスター日吉子は左に配置され、切り返し(とこの場合は言わないのかもしれないが)が繰り返されるこのシーンは、あたかも2人が入れ替わったような印象にさせられる。

これはもちろん意図的に行われていて、その理由は終盤、伏線回収的に示唆されるが、つまりトツ子とシスター日吉子は時間的・関係的に往還している(一般的感覚において時間は左から右に流れるが、2人の会話における切り返しは、その関係が逆になる。ただし日本の文学・マンガは逆(左右)で、故に、本作はマンガ(文学)とアニメ(映画)を往還しているともいえる)。

それこそが2人の関係性を表していて、それが、終盤におけるシスター日吉子の脚→廊下のシーンを受けて、校舎を出たトツ子の脚→バレエシーンへバトンタッチされる流れとなる(このときトツ子はスクリーン中央から左右に自由に動き回ることができる)。

同じ演出は、最終盤、フェリーに乗ったルイを見送らず防波堤に座るきみ(左)とトツ子(右)のシーンでも用いられる(この交換の後、きみは本当にしたいことに向かって走り始める。走る彼女は遂にスクリーンの端からセンターに追いつくことができる)。

本作は男女3人編成のバンドの話であるが、従来の物語にありがちな恋愛や仲間内の葛藤は描かれない。というか、「そこに至る以前」が描かれている

「ギスギスはつらい。凪のような物語もあっていいと思い、怒りにいたるまでの、悲しみになる前の感情の粒に目を向けました。あの時の気持ちは何だったのか、まだ自覚が追いついてない子たちなんです」

前出 山田監督インタビュー記事

それを象徴するのが「テルミン」という(一般的な楽器が「人が直接/間接的に触れることによって音が出る」のに対して)「人が触れないことによって音が出る」不思議な電子楽器だ。
ちゃんとした理論はさておき、ここでは「人(手)の気配」によって音が出るとして、つまり意図した音を出すためには適切な「気配」の距離を保つ必要があり、その扱いの繊細さは本作においてバンドメンバーだけでなく家族・友達・教師などとの関係性を象徴している(なので、本作は「脚」だけでなく「手」も演技していると言える)。

そこで先の「不自然なカメラ位置」の話に戻るのだが、それは『まだ自覚が追いついてない子たち』のバランスの悪さであり、余白は可能性でもある(しかし、まだ未熟でその場から動けない、或いは動かせてもらえない。それを自ら突破する瞬間は上述したとおり)。

つまり本作は、「極端な余白」か「極端なアップ」でしか自他を捉えられなかった3人が、各々ほかの2人との関係によって、他者(社会)に対してだけではなく自身に対しても適切な距離を獲得してゆく(山田監督の言葉を借りれば『自覚が追いついて』ゆく)物語だ。

それを手助けしたのが音楽であった-さらに言えばDAW(Digital Audio Workstation)によって独り閉じこもっていられたルイが、そのDAWによって「心通わせられる」仲間を獲得できた-ことが、個人的には嬉しかった。
何故なら、私は以前、DAWによって「もう音楽で心通わすことができないのではないか」と絶望したことがあったからだ。

さて、上で引用した本作公式サイトの「Story」は『観客の前で見せた三人の「色」とは』で終わっている。
私は冒頭で『白にならずに、繊細な「あわい」になる』と書いた。
果たして、ライブで「心通わせた」3人が見せた色は……

メモ

映画『きみの色』
2024年9月4日。@新宿ピカデリー


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