『親友』って何ですか?

「DRESS」というウエブメディアに「親友がいる人は約6割。「親友」と「友達」はどう違う?」(2021年4月12日配信)との記事がアップされていた。
記事によると、「『親友』と呼べる人」が1人以上いると回答した人が、6割以上(178/277人)いたとのこと。内訳としては、1人が60人(21.7%)、2~5人が109人(39.4%)で、6人以上いると回答した人が9人(3.2%)となっている。

石田光規著『友人の社会史』(晃洋書房、2021年。以下、本書)によると、「青少年研究会」という機関が2012年に実施した調査結果では、「親友と呼べる人数」は、4.5人だった。この調査の対象年齢が16歳~29歳であり「DRESS」の回答者の年齢層とは異なるだろうが、結果を見ると大きな差異はなさそうである。


『親友』の変化

本書によると、『親友』という言葉が頻繁に使われるようになったのは実は、ごく最近1990年代後半あたりかららしい。

本書は、朝日新聞と読売新聞の1986年から2018年までのデータベースから『親友』というキーワードでヒットする記事を分析しており、それによると、両紙とも上述のとおり1990年代後半から、新聞記事に『親友』が使われる傾向が急激に増えている。

その中でも、2000年辺りを境に、『親友』の概念が変化していると石田は指摘している。
本書では、色々な角度から分析をしているのだが、たとえば「読者投稿欄」に掲載された投書の内容の変化を見てみる。

石田は、2000年代初頭までを「喪失体験と困難の克服の物語」だと分析している。
たとえば、事故や病気で他界した『親友』が如何に大事な存在だったかなど(喪失体験)だったり、「同居者の認知症、いじめ、受験の不合格、リストラなど」の「わかりやすい困難」に手を差し伸べてくれた『親友』の存在などを綴ったものが、ほとんどだったという。

それに対し、2000年代初頭以降は『親友の重要さを表明した記述、困難と言うほどでもないちょっとした出来事にまつわる記述、手紙にかんする記述が増えてゆく』。

つまり、「重大なきっかけがあって『親友』の大切さに気付く」ではなく、「日常的に『親友』の大切さを感じている」ことが綴られるようになったのである。

2000年代以降、『親友』は、それ以前より頻繁に使われるようになった。ただし、その使われ方には特徴がある。

「声」において、一九九〇年代まで、生活世界のなにげない風景で使われていた「親友」という言葉は、二〇〇〇年以降、投稿者による友情物語のなかで使われる頻度を増した。言い換えると、「声」欄における親友は、生活のふとした場で現れる存在から、一定の物語性をまとった存在へと移っていったのである。
(※太字、引用者)


「物語」としての『親友』

読者の投稿欄において、『親友』が「友情物語」の文脈で使われ始めるのには理由がある。

石田の調査によると、新聞記事全体で見た場合の『親友』が頻出するようになったのは、「文化・芸術・芸能報道」と「スポーツ報道」である。

フィクションの発話者による文化・芸術・芸能報道において、「親友」という言葉は、おもに、物語を構成する主人公とその他の人びと、または、主人公以外の人びと同士の関係性を指し示すさいに用いられる。

『親友』が人と人の関係性を示すものであるため、この使い方は珍しいものではないが、その中でも重要な指摘事項として「劇や小説といったフィクションの場で使われる頻度が増えてきた」と石田は言う。

さらに、石田は時を同じくして、「スポーツ報道」においても『親友』が使われる頻度が増してきたと指摘する。中でも顕著なのが、「高校野球・オリンピック・(サッカー)ワールドカップ」である。

高校野球とオリンピックは、精神修養および根性主義と強い関わりをもつ。ときに国を代表する戦争になぞらえられるワールドカップは、過酷な競争の場であり、そこで同じチームに属する人びとは戦友であるかのように表さられる。つまり、高校野球、オリンピック、ワールドカップの親友記事で描かれるのは、苦楽をともにしつつ、感動の物語を紡いでゆく関係性なのである。
(略)
つまり、一九九〇年代半ばから二〇〇〇年代、二〇一〇年代は、フィクションの場を借りた親友の物語、過酷なスポーツの場を借りた物語が増えていったのである。

石田は高校野球を例に、「スポーツ報道」における「親友物語」には一定のフォーマットがあることを説明している。

親友同士の球児が展開する友情の物語は、ほぼ同じフォーマットを用いて描かれる。すなわち、導入部では、試合の描写が使われ、主人公の二人が紹介される。次に、両者の関係性について、もう少し詳しく述べられ、それを受けて、いくつかのエピソードと友情性を交えた物語が紹介される。それが終わると、再度試合に戻り、最後にメッセージで締めくくられる。

「両者の関係性」は、「同じポジションでレギュラーを争う」とか「少年野球で同じチームだった二人が、試合の場で敵として戦っている」など、ある意味においての「勝者」「敗者」がはっきりと分かれてしまう関係となる。

さらに石田は、この定型の物語について重要な指摘をしている。

それは、批判、愚痴、ねたみ、利己性、あきらめ、放棄など人間の悪しき部分が徹底的に捨象されていることである。
ライバルであっても互いに励まし合い、かりに、自らが試合の敗者になっても、ためらうことなく勝者を称え、応援する側に回る。(略)
親友が窮地に陥った時には、否応なしに駆けつけ、惜しみない支援を与える。

それは、『人間性のなかから暗い部分を抽出・除菌した「無菌化された友情」の物語』である。

この「無菌化された友情」の物語が、先で指摘した「日常的に『親友』の大切さを感じている」という読者投稿欄の内容に見て取れる。


無菌化された純度の高い『友情』

本書では、「若者の友だちとの付き合い方」について、2種類の調査結果が掲載されている。

一つは、第一生命経済研究所のもの(1998年、2001年、2011年)。
「多少自分の意見をまげても、友人と争うのは避けたい」との質問に、「よくある」「ときどきある」を合わせた回答が、1998年では男性 46.5%、女性60.5%だったのに対し、2011年では男性 66.2%、女性 73.3%と激増している。
また、「ときどき友人に嘘をついてしまう」の同回答として、1998年と2011年を比べると、男性 45.3%→24.8%、女性 47.3%→28.9%と激減している。

もう一つの調査は、先述の青少年研究会のもの(2002年、2012年)で、「意見が合わないと納得いくまで話す」の質問において、50.2%(2002年)→36.3%(2012年)と激減している(男女合計)。

これらの結果を見ると、友人とは「なるべく衝突を避けたい」意識が強くなっているようである。

さらに、第一生命では、「友人との付き合いのために、親や家族を多少犠牲にするのはやむをえないと思う」との質問において、男女とも10%以上の減少がみられる。
また、青少年研究会では、「友達といるより一人が落ち着く」が、46%→71.1%と激増している一方、「友達と連絡を取っていないと不安」も80.9%→84.6%と増加しているという「矛盾」も認められる。

この変化について石田は、スマホなどを個々人が所有するようになり、SNSなどのコミュニケーションツールによって「人間関係における選択性が強まり、選択制を本質とする友人関係の純度が強まったために生じた」と分析する。

内的な基準をもとに選ぶ、という「友人」としての純度が増したからこそ、却って、実際の友人関係は複雑性が増してしまう。複雑性が増したからこそ、そこから生じる不安の解消手段を、半ば虚構化された友情の物語に求める。

そして、純度が増し無菌化された『親友』は、冒頭に挙げた「DRESS」の記事にもみられる。
「『友達』と『親友』の違いは?」の質問に、「悩みごとや心の中を打ち明けられる」「お互いに成長できる」「久しぶりに会っても違和感がない」「相手の幸せを願える」との回答が寄せられている。

これらの『親友』は、人間関係の「葛藤」などネガティブな要素が一切なく、「無菌化」されている。

気になるのは、全ての回答は常に「自分ありき」であることだ。
(自分の)悩みごとや心の中を打ち明けられる」、「お互い(自分はもちろん相手も)成長できる」、「(自分にとって)久しぶりに会っても違和感がない」、「相手の幸せを願える(自分)」….。
そこに「自分の思いや期待に反する勝手な言動をする相手」は存在しない。

さらに言うと、『親友』は、「自分を『理想の自分』にしてくれる存在」とはならないだろうか?
自分を傷つけたり、存在を脅かせたりしないのはもちろん、自分が『親友』を大切に思うことによって「純真な心を持つ理想の自分」という気分に浸らせてくれる、そんな都合の良い「イメージとしての存在」。

あなたにとって『親友』とは何ですか?

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