甫木元空著『はだかのゆめ』(小説版)
2022年に公開された映画『はだかのゆめ』(甫木元空監督)のパンフレットで、甫木元監督自身が映画の成り立ちを語っていた。
『かなり現実に近い母と僕がいて、日々僕が見聞きしたことが書かれている』という『小説バージョン』が「新潮」(新潮社) 2023年3月号に掲載されていて、確かにやっぱり映画版と同じく「不思議な夢を見ている」感覚ではあるが全く違う、ストーリーではなく「夢を見ている」行為自体が違う。
映画版は「誰かが見ている夢を見ている」感覚なのに対し、小説版は「自分が見ている夢を見ている」感覚と言えばいいのか。
それは、映画が「受動的に観る」のに対し、小説は「能動的に読む」という根本的な違いによる影響が大きいのかもしれない。
つまり、映画は「カメラ」という客体が見ているものを観(させられ)るのに対し、小説は「能動的に読む」特性上、どうしても「視点となる主体」が必要になる、という違いである。
と書いたが、では何故、小説版が「誰かの物語を読んでいる」のではなく「自分が見ている夢を見ている」のかというと、この小説が「エピソードの断片」で出来ているからだ。
物語は主人公が東京で同棲していた恋人と別れて部屋を追い出され、母が闘病している高知へ移住して祖父(母の父親)と同居する、という一応のストーリーを持っているが、その間に、母と亡くなった父と暮らしていた埼玉の実家や、父が亡くなった時のことや親戚のことなどが脈絡なく、接続詞もなく唐突に挟み込まれたりする。
読者は、その脈絡のなさに戸惑い、「小説である以上、何かしらのストーリーがあるはず」とそれを探そうとするが、やっぱり見つからず、しかし「既に書かれた小説」として読んでいる以上、それから逃れることができない。
この、主体性を奪われている状態が、普段我々が見ている「夢」に近い。
映画版のパンフレットに寄稿している保坂和志氏が、エッセイ集『言葉の外へ』(河出書房新社、2003年)の中で、「夢の中で猫になった男」を描いた自身の小説『明け方の猫』(講談社、2001年)について、こう書いている。
「夢にさせられている」状態にある我々は、だから、脈絡のない「エピソードの断片」を「ひとつながりの体験」として、無条件に受け入れることになる。
保坂氏はまた、『世界を肯定する哲学』(ちくま新書、2001年)の中で、こうも書いている。
小説の主人公となった読者は、現実の「母の死」から目を背けたいのに、しかし、それは「夢のなかでもさせられている」。そこで自らの意志は無力なのにも拘わらず、それでも『「私のようなもの」が必死になって世界の統一を見出そうとする意志(生きようとする意志)』によって抗おうとする。
だから小説『はだかのゆめ』は「夢そのもの」を描いていると言えるし、それは映画版も同じだ。
そして、小説版でも映画版でも、主人公がその縁とするのが「祖父の生命力」である。映画版では実際の祖父の生命力に圧倒されるが、小説版では彼の話す魅力的な土佐弁が、その存在感を示す。
祖父は、主人公(読者)が見る「はだかのゆめ」の中にあって、保坂氏の云う、『「私のようなもの」が必死になって世界の統一を見出そうとする意志(生きようとする意志)』によって抗おうとするための、力であり道しるべである。
だから、映画版も小説版も、目覚めた後に爽快感が残る。