2024年8月20日付朝日新聞朝刊の小さな死亡記事に目を疑った。
驚いたのは、出身が関西ではなく北海道だったということだがしかし、私は知っていたはずだった。
だが、彼を一躍有名にした「受験生ブルース」は私が生まれる2年前の1968年にヒットし、だから私にとって彼の印象は「受験生ブルース」と「マラソン・トライアスロンの人」だった。
いや、それも違う。恐らく、私にとって彼は「"高石音楽事務所"の人」だ。
なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫、1999年)には、こう書いてある。
改めて驚いたのは、高石氏は昔から音楽をやりたかったわけではなかった
ということだ。
当時、大阪労音に勤めていた音楽評論家の田川律氏は、こう振り返る。
『えらい土臭い、汚れて、ジジムサイ奴』という印象は、恐らく彼の音楽の出自が「釜ヶ崎」にあるからだろう。
『人懐っこい笑顔は今も変わらず、笑うと途端にとても童顔』という風貌については、早川義男氏がこう記している。
「腰まで泥まみれ」は、痛烈な反戦フォークだ(原曲はピート・シーガー)。
軍隊の演習で、隊長が『河を歩いて渡れ』と隊員に命じた。
命令に従い隊員たちは、重装備のまま川を渡り始め、膝まで泥まみれになり、さらに進んで腰まで泥まみれになる。
隊員たちは隊長に「引返しましょう」と箴言するが隊長は「そんな弱気でどうするか。俺は前に渡ったことがある。俺についてこい」と、自ら先頭を歩き始めた。隊員たちがいよいよ首まで泥まみれになった時、前から叫び声が聞こえ、隊長のヘルメットが水に浮かぶのを隊員たちは見た。
彼らは引返し、隊長だけが死んだ。
『これを聞いて何を思うか あなたの自由』
別に戦争に限ったことではない。
ネットに度々アップされる度が過ぎた悪ふざけの動画、人を死に至らしめるまで止まない誹謗中傷。
過去に散々同じような事例を見て来たのにも拘わらず。
炎上騒ぎになったり、誰かが亡くなったり傷ついて。
苛めもまた……
そこに至って、ようやく誰もが思う。
「どうして誰も止めなかったのか? 誰かが『やめよう』と言えばよかったんじゃないか」