「読書」を堅苦しく考えて尻込みする人へ。読書は自由だ~青山南著『本は眺めたり触ったりが楽しい』~
「読書」というものに高い壁を感じるのは、もしかしたら、いや、かなりの確率で、「かくあるべし」という「作法」というか「決まり」がある、という思い込み或いは刷り込みによるものではないだろうか。
曰く、「最初から読み始め、最後まで読まなければならない」だとか、「内容や作者の主張が理解出来なければならない」だとか、「感想や内容を人に伝えられるように読まなければならない」だとか。
しかし、青山南著『本は眺めたり触ったりが楽しい』(ちくま文庫、2024年。以下、本書)は、タイトルからして『そんな堅苦しいことなんて考えず、自分が楽しいように、好きなように読めばいいんだよ』と諭してくれていて、とても心強い。
実際、本書はとても読みやすい。
章立てもなく、短いセンテンスの文章が並んでいる。それぞれのセンテンスは繋がっているようで、そうでないようで。
つまり、本書は適当にどこから読んでも、どこで読み終わっても、一向に構わない。
文字も適度に大きく、親しみやすい文体。阿部真理子氏によるオシャレなイラストも素敵だ。
本書において、著者は本を読むのが遅く、ななめ読みができない、そのくせ文章の内容はなかなか頭に入ってこないと告白している。
「積ん読」も大いに結構、『本もね、長く積んでおくと、発酵していい味がでるのよ、といったりもするぼくなのだ』。
そうして積んである本を眺めたり、時々触ったりする、ぱらぱらと読んだりもする。『そうしているうちにその本へのこっちの固い心が少しずつ解けていく』。だから、『「読む」と「手にとって眺める」はほとんどおなじことのようにもおもえる』と著者は言う。
著者は本書の最序盤に、アメリカの小説家であるウィリアム・ギャスが自身の小説の序文に書いた文章を紹介している。
なんて素敵な序文だろう。
これはギャスの小説だけでなく、あらゆる本に通用する普遍の言葉ではないだろうか
本書には、いろんな「本読み」が登場する。
解説から読む人、結末から読む人、逆に結末だけは読まない人、本をバラバラにして持ち歩く人、買った本のページをコピーしてそれを読む人、ページの端を折る人、線を引きまくる人、寝っ転がってでしか本を読まない人、反対に歩きながらしか読まない人、読まずにただ眺めているだけの人、何冊も同じ本を買う人、何冊も同じ本を買ってしまう人……
内容をちゃんと覚えている人、間違って覚えている人、時間が経つにつれて勝手に改変してしまう人……
そう、本はどう読んだっていい。
正しく理解しなくても、ちゃんと記憶していなくても構わない。
じゃぁ、何故本を読むのだろう?
私は本書で引用されている小説家・中野重治の言葉を読んで、何となくわかった気がしたのだった。
引用した後、著者は言う。
「理解しなければ」とか堅苦しいことを考えなくても、まずはただ「楽しい」と思って読み進めてみる。
本書は、「楽しい」と思って読み進めるのに最適だ。
「読書」に堅苦しいイメージを持っている人は、まず本書から始めてみるのはどうだろうか。
もちろん、買ったからと言ってすぐに読み始めなくても構わない。
眺めたり、触ったりしているだけでもいい。
『そうしているうちにその本へのこっちの固い心が少しずつ解けていく』のだから。