柴崎友香の小説は「気持ち悪い」?(「解説」を読む)
もう何年も前の事である。
行きつけの飲み屋に行った際、たぶん二人とも読書好きと知っている店主が仲介してくれたのだと思うが、隣の女性客と好きな小説の話になった。
何かのきっかけで柴崎友香の話になったとき、彼女は「柴崎友香は気持ち悪い」と言った。
どう「気持ち悪い」のか、昔の事だし、酔っていたしで覚えていないのだが、確かに彼女は「気持ち悪い」と言った。
「柴崎友香の小説は気持ち悪い」のか?
最近はそうでもないと思うが、デビュー以降の柴崎友香に対する印象といえば「明確なストーリーがない」とか「展開がない」、つまり、「何気ない何もない日常を描いてる」といった感じだった。
しかし、たとえそうだとしても、それらが「気持ち悪い」ということを意味するとは思えない。
この『作品世界に生きる人たち以上の視点を持っていない』という点が、「小説」に対してある固定観念を持っている人にとって「気持ち悪い」と思われているのではないだろうか。
たとえば、柴崎の『主題歌』(講談社文庫、2011年)の表題作の書き出しはこうだ。
小説好きの人には、どうってことない書き出しで、きっとそういう人たちは、この書き出しで「小説を読むモード」に入るのではないだろうか。
しかし、保坂はこの書き出しを「失敗」と評している。それが先ほど引用した保坂の評を「逆説的に証明している」と言う。
「きょうのできごと」を巡る解説
では、「柴崎友香の冒頭」とはどんなものなのか?
これも柴崎の『きょうのできごと』(河出文庫、2004年。現在は2018年刊行の『増補新版』になっている)の解説で保坂自身が解説している。
以降、保坂は続きの文章を解説し続ける。そして、こう書く。
と、ここまで引用した後に自身のことを書くのもおかしいが、私は当時この解説を読んで、腑に落ちた気がしたのだ。
私にとって、『きょうのできごと』は柴崎友香の2冊目の本になるのだが、冒頭数ページを読むのに1時間くらい掛かった。「自分には合わないのか」と思いながら頑張って読み進めていくと、いつの間にかそれなりに自分で読み方をチューニングできるようになったのだが、冒頭が進んでいかない理由を保坂の解説で理解できた(と、自分に都合良く思い込んでいる)。
それはともかく、河出文庫での柴崎友香の作品は『きょうのできごと』が最初であり、2冊目が『青空感傷ツアー』(2005年)である。この本の解説は長嶋有氏によるものだが、いきなりこんな書き出しである。
さらに、保坂が「失敗」と評した『主題歌』の解説でも、保坂が指摘する書き出しについては言及がないが、やっぱり『きょうのできごと』の事が書かれていて、それだけ柴崎友香のデビューが鮮烈だったことを物語っている。
今も「管理社会になっていくことを信じてない」か?
ところで、『青空感傷ツアー』の解説に興味深いことが書いてあった。
2005年にそう発言した柴崎は、2020年刊行の『千の扉』(中公文庫)でもこう書いている。
バブルの狂乱を『本当にばかな時代だった』と振り返り、若者たちに『自分たちで、自分の手で野菜や土や水を触って確かめながら、自分たちの暮らしにふさわしいものを選ぶ。この先、日本は貧しくなっていくけど、つつましくなった今のほうが心を育てるチャンス』と説く人物が登場するシーン。
主人公の千歳は、バブル時代を生きたたいていの人は『世の中は浮かれてたけど自分には関係がなかった』と言い、『直接という意味ではたぶんその通りだし、確かに、ばかなこと、悪いこともたくさん見てきてうんざりしているとは思う』としたうえで、『それでも恩恵受けてたっていうか、ラッキーだったんじゃないか』、『その時期に今まで見たことなかったような映画も展覧会もたくさんやってて、自分は行けなくてもなんかそういう楽しそうな、おもしろいことやってる人がいるのは感じてて、いつか自分もできるのかもって思えたし、中学生が一人で本屋で立ち読みしてても、なんかすごい高揚感があった』というようなことを回想したあと、こう続ける。
柴崎が現在でも『管理社会になっていくとか、そういうことを信じない』と思っているということ、そして、その発言の根拠となるものが、この文章、特に太字部分に現れているのではないだろうか。
「柴崎友香の小説は気持ち悪い」のは何故か?
本稿冒頭に、柴崎友香作品の印象として「何気ない何もない日常を描いてる」と書いたが、これは『ドリーマーズ』(講談社文庫、2012年)の 佐々木敦氏の解説に柴崎自身の言葉として引用されているものである。
この時点で柴崎は「(自分が)見る」ことに主眼を置いている。確かに、柴崎作品では登場人物が「見た」ものの描写が多い。風景、人物、出来事……
ストーリーに全く関係がない、それこそ柴崎自身が語っているような『それが全然説明されないというか、わけの分からないまま』の日常の描写も多用される。
さらに、主人公がカメラを持っているという設定も多く、そこでは、単に「視覚が捉えた/見えた」ではなく、「主体的/自発的に見る」ことが意識される。
だが、前述したように、それ自体は「気持ち悪い」に直結しない。
しかし、「見る」からこそ、柴崎作品は「気持ち悪い」のである。
『かわうそ堀怪談見習い』(角川文庫、2020年)での藤野可織氏の解説を引いてみる。
一般的に聞かれる怪談話について、藤野は『圧倒的に多いのは、幽霊のほうから積極的なかかわりがあったという証言』であり、それに付随して『目撃者は、顔だけは見てはいけない、と直感する』と指摘したあと、こう評している。
「私」にとって「何かを見る」ことは主観的なことだと思い込んでいて、それは裏を返せば「誰かから見られている」という受け身の立場でもあるという客観性は、普段意識されることがない。
だから、あらためて自身が他人から「見られている」という、客観的に考えると当たり前のことを意識しはじめると、「気持ち悪い」という感情が生まれる(ストーカーや無言電話を考えれば理解しやすいかもしれない)。
一般的な小説が、そういった「気持ち悪さ」を感じさせないのは、登場人物を見ている(登場人物側からいえば「見られている」)「誰か」が「作品世界を対象化する視点を持った作者」であり、登場人物は作者によって、「見られることを前提として」書かれている。
換言すると、登場人物は「自身を読者に見せている」。
そして絶対に「読者を見ない」。
だから、読者は安心して登場人物を見ることができる。
対して、保坂が指摘するように『作品世界に生きる人たち以上の視点を持っていない』柴崎友香は、『作者として作品世界を対象化する視点の力を借りずに書』いているので、当然、登場人物は作者や読者はもちろん、作中の人物であっても、我々の普段の生活と同様に「自分以外の他人から見られる」ことを前提にしていない。
つまり、登場人物は「読者に見せている」という概念を持たない。
そのために、『何気ない何もない日常を描いてる』柴崎作品の世界観の中において、読者だけでなく作者自身でさえ、対象化する視点を持つことができず、必然的に登場人物と同じ視点ー登場人物から見える位置ーに立されてしまうことになる。
同じ視点に立った登場人物と読者と作者。
見ているのはどっちで、見られているのは誰なのか?
だから、柴崎友香の小説は「気持ち悪い」。
そう考えると、冒頭の女性は、その「気持ち悪さ」を捉えられる、相当な力量を持った物語読みだったということが、あらためてわかるのである。