柴崎友香の小説は「気持ち悪い」?(「解説」を読む)

もう何年も前の事である。
行きつけの飲み屋に行った際、たぶん二人とも読書好きと知っている店主が仲介してくれたのだと思うが、隣の女性客と好きな小説の話になった。
何かのきっかけで柴崎友香の話になったとき、彼女は「柴崎友香は気持ち悪い」と言った。
どう「気持ち悪い」のか、昔の事だし、酔っていたしで覚えていないのだが、確かに彼女は「気持ち悪い」と言った。

「柴崎友香の小説は気持ち悪い」のか?

最近はそうでもないと思うが、デビュー以降の柴崎友香に対する印象といえば「明確なストーリーがない」とか「展開がない」、つまり、「何気ない何もない日常を描いてる」といった感じだった。
しかし、たとえそうだとしても、それらが「気持ち悪い」ということを意味するとは思えない。

これは小説としてほとんど信じられないことだが、著者である柴崎友香は作品世界に生きる人たち以上の視点を持っていない。「持っていない」と、こういう言い方をすると既存の小説観からは「作者としての自覚のなさ」とか「作者として作品世界を対象化する視点の欠如」という風に否定的な判断しかなされないが、柴崎友香はそのような視点の力を借りずに書いて、それに成功したのだ。著者として柴崎友香は”以上”とか”自覚”とか”対象化”という安全策を選ばなかったのだ。

保坂和志著『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社、2008年) (太字は引用者)

この『作品世界に生きる人たち以上の視点を持っていない』という点が、「小説」に対してある固定観念を持っている人にとって「気持ち悪い」と思われているのではないだろうか。

たとえば、柴崎の『主題歌』(講談社文庫、2011年)の表題作の書き出しはこうだ。

会社に来るまでのあいだに携帯プレイヤーで聞いていた音楽が、実加の頭の中で鳴り続けていた。

『主題歌』

小説好きの人には、どうってことない書き出しで、きっとそういう人たちは、この書き出しで「小説を読むモード」に入るのではないだろうか。
しかし、保坂はこの書き出しを「失敗」と評している。それが先ほど引用した保坂の評を「逆説的に証明している」と言う。

冒頭からしばらくは、「これがいままでと同じ柴崎友香か?」と驚くくらい退屈だ。ふつうの、作者が作品世界の外にいる小説に慣れている読者には、いかにもふつうの安定した書き出しとしか思えないかもしれないが、その安定が退屈であり失敗なのだ。

『小説、世界の奏でる音楽』(太字部、引用元では傍点)

「きょうのできごと」を巡る解説

では、「柴崎友香の冒頭」とはどんなものなのか?
これも柴崎の『きょうのできごと』(河出文庫、2004年。現在は2018年刊行の『増補新版』になっている)の解説で保坂自身が解説している。

たとえば、最初の「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の冒頭、「光で、目が覚めた。」につづく段落。
「右側から白い光が射していて、中沢が窓を開けて少し身を乗り出すのが黒い影で見えた」は、純粋な視覚ないし光学的現象だが、それにつづく「白くて強い光だったから、一瞬、朝になったのかと思ってしまった」は、その場(現在時)の思考だ。

『きょうのできごと』 (解説:保坂和志。太字部、引用ママ)

以降、保坂は続きの文章を解説し続ける。そして、こう書く。

私のこの説明を読んでも、たぶんほとんどの人は「だからどうしたの?」としか思わないだろう。
「だって、まんまじゃん」とか、「全然ふつうなんじゃないの?」と思った人もいるだろう。しかし、これが全然ふつうではない。だから私はわざわざ太字にして要素を強調したのだが、ワンセンテンスごとに見たり感じたりする対象が変わり、自分の気持ちもそれにつられて変わっていくーという、このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当のところ現実の心や知覚の動きよりはるかに活発に構成されている。この書き方ができる人は、ほんのひとにぎりの優れた小説家しかいない。
(略)
この機敏な動きは導入部分だけでなく、この小説全体で止まることがない。だからそれに気がついたーつまり、それを楽しむことのできたー読者はきっと、一見簡単でするりとした外見(つまり「筋」)にもかかわらず、読むのに案外時間がかかっただろう。気がつかなかった読者は(だいたい感傷的な展開しか期待しないタイプの人たちだから)、「なに、これ」としか思わなかっただろう。(略)。ちょっとだけ目新しい書き手は簡単に発見できるけれど、柴崎友香はもっとずっと異質な書き手だからその新しさに気づくのが難しく、読み手自身の力量が問われることになる。

(同上)

と、ここまで引用した後に自身のことを書くのもおかしいが、私は当時この解説を読んで、腑に落ちた気がしたのだ。
私にとって、『きょうのできごと』は柴崎友香の2冊目の本になるのだが、冒頭数ページを読むのに1時間くらい掛かった。「自分には合わないのか」と思いながら頑張って読み進めていくと、いつの間にかそれなりに自分で読み方をチューニングできるようになったのだが、冒頭が進んでいかない理由を保坂の解説で理解できた(と、自分に都合良く思い込んでいる)。

それはともかく、河出文庫での柴崎友香の作品は『きょうのできごと』が最初であり、2冊目が『青空感傷ツアー』(2005年)である。この本の解説は長嶋有氏によるものだが、いきなりこんな書き出しである。

この本は、柴崎友香の二冊目の文庫である。一冊目は『きょうのできごと』で、解説を僕ではなくて(当たり前だが)保坂和志氏が書いている。
それは、とても熱い解説だった。本文の引用も長く、そこに解説者自ら傍点までふっていた。
(略)
それは単に「面白い小説」というだけでない、保坂氏が常々考えつづける「小説のこと」の真ん前に「きょうのできごと」が置かれていたかのようだ。

『青空感傷ツアー』 (解説:長嶋有。太字部、引用元では傍点)

さらに、保坂が「失敗」と評した『主題歌』の解説でも、保坂が指摘する書き出しについては言及がないが、やっぱり『きょうのできごと』の事が書かれていて、それだけ柴崎友香のデビューが鮮烈だったことを物語っている。

ぼくが著者の作品を初めて読んだのは一九九九年だった。J文学という名の下に、現代文学の一潮流が現われていた時期のことである。
(略)
(引用者駐:J文学を特集した本の)巻末近くに、新人作家の短編とインタビューが掲載されていた。その一編が「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」だった。タイトルに惹かれてその作品を読み、新鮮な感覚を味わったが、そのあとで、しばらく時間をおいてから、初の単行本『きょうのできごと』の最初の一編として、つまり一冊の作品の冒頭部分として再構成されてふたたび目の前に現われたときには椅子から落ちた。心底たまげたのだが、というのは、これにつづきがあるとは思わなかったから。短編を読んでそれでおしまいと思っていた。しかし、そこにはつづきがあり、つまり、その後の時間と場所をもっていた。まるで、それが人生だし、それがふつうのこと、というように。

『主題歌』( 解説:福永信)

今も「管理社会になっていくことを信じてない」か?

ところで、『青空感傷ツアー』の解説に興味深いことが書いてあった。

柴崎さんとは今年(二〇〇五年)の夏に対談をした。司会が福永信さんで、実際には座談という感じだった。朝から晩までたっぷりかけた(かけすぎた)、とても長い充実した物になったが、掲載されなかったやりとりもたくさんあって、特に印象深い言葉として、こんなのがあった。
これから世界がどんどん(閉塞した)管理社会になっていくとか、そういうことを(私は)信じていない」と柴崎さんはいったのだ。
「なるはずがない」と断言さえした。僕は少し驚いてしまった。

『青空感傷ツアー』( 解説:長嶋有。太字は引用者)

2005年にそう発言した柴崎は、2020年刊行の『千の扉』(中公文庫)でもこう書いている。

バブルの狂乱を『本当にばかな時代だった』と振り返り、若者たちに『自分たちで、自分の手で野菜や土や水を触って確かめながら、自分たちの暮らしにふさわしいものを選ぶ。この先、日本は貧しくなっていくけど、つつましくなった今のほうが心を育てるチャンス』と説く人物が登場するシーン。

主人公の千歳は、バブル時代を生きたたいていの人は『世の中は浮かれてたけど自分には関係がなかった』と言い、『直接という意味ではたぶんその通りだし、確かに、ばかなこと、悪いこともたくさん見てきてうんざりしているとは思う』としたうえで、『それでも恩恵受けてたっていうか、ラッキーだったんじゃないか』、『その時期に今まで見たことなかったような映画も展覧会もたくさんやってて、自分は行けなくてもなんかそういう楽しそうな、おもしろいことやってる人がいるのは感じてて、いつか自分もできるのかもって思えたし、中学生が一人で本屋で立ち読みしてても、なんかすごい高揚感があった』というようなことを回想したあと、こう続ける。

でも、今、自分が若い人たちにそんな楽しみを作れているかというと、まったくそうじゃないから、受け取ったものを返せてないのが申し訳ない、みたいなことを思うんですよ。昔がよかったとか戻ってほしいとか思ってないし、わたしは自分の生活の中で楽しみを見つけてやってきましたけど、そのことと、だからこの暮らしで十分でしょ、これから世の中は厳しくなっていくんだ、って若い人たちに求めるのは違いますよね

『千の扉』(太字は引用者)

柴崎が現在でも『管理社会になっていくとか、そういうことを信じない』と思っているということ、そして、その発言の根拠となるものが、この文章、特に太字部分に現れているのではないだろうか。

「柴崎友香の小説は気持ち悪い」のは何故か?

本稿冒頭に、柴崎友香作品の印象として「何気ない何もない日常を描いてる」と書いたが、これは『ドリーマーズ』(講談社文庫、2012年)の 佐々木敦氏の解説に柴崎自身の言葉として引用されているものである。

先のインタビューのなかで、柴崎友香は、こんなことを語っている。

現実ってすごいヘンじゃないですか。私の小説は「何気ない何もない日常を描いてる」とか言われたりするんですけど、自分では全然そんな風に思ってなくて、普通の”日常”が一番変というか。すごく変なことたくさん起こるじゃないですか。変な人を見たりとか。「日常」ってそれが全然説明されないというか、わけの分からないままのことのほうが多いですよね。電車ですごい変わった人を見ても、その人が何でそんな風になってるのか分からないまんま。目の前にある現実ってこんなに変だ、こんなに驚異的だ、ってことをもっと描いても良いのかなって。

『ドリーマーズ』( 解説:佐々木敦)

この時点で柴崎は「(自分が)見る」ことに主眼を置いている。確かに、柴崎作品では登場人物が「見た」ものの描写が多い。風景、人物、出来事……
ストーリーに全く関係がない、それこそ柴崎自身が語っているような『それが全然説明されないというか、わけの分からないまま』の日常の描写も多用される。
さらに、主人公がカメラを持っているという設定も多く、そこでは、単に「視覚が捉えた/見えた」ではなく、「主体的/自発的に見る」ことが意識される。

だが、前述したように、それ自体は「気持ち悪い」に直結しない。
しかし、「見る」からこそ、柴崎作品は「気持ち悪い」のである。

『かわうそ堀怪談見習い』(角川文庫、2020年)での藤野可織氏の解説を引いてみる。
一般的に聞かれる怪談話について、藤野は『圧倒的に多いのは、幽霊のほうから積極的なかかわりがあったという証言』であり、それに付随して『目撃者は、顔だけは見てはいけない、と直感する』と指摘したあと、こう評している。

本書『かわうそ堀怪談見習い』を読んで、気づいたことがある。とても大事なことだ。私はずっと「見た」という話を追い求めてきた。本書には、そういうことももちろん書かれている。でも同時にこうも書かれている。なにかこの世ならざる者が「わたしを見ている」と。それも頻繁に。従来の語りでは幽霊は、圧倒的に目撃されるものとされてきた。つまり、私たちが幽霊を「見る」。しかし、幽霊から積極的なかかわりがもたれる場合、幽霊もまた目撃者を「見ている」はずだ。幽霊を「見る」ことの多くは、本来幽霊に「見られる」こと込みで起こることなのだ。

『かわうそ堀怪談見習い』( 解説:藤野可織。太字は引用者)

「私」にとって「何かを見る」ことは主観的なことだと思い込んでいて、それは裏を返せば「誰かから見られている」という受け身の立場でもあるという客観性は、普段意識されることがない。
だから、あらためて自身が他人から「見られている」という、客観的に考えると当たり前のことを意識しはじめると、「気持ち悪い」という感情が生まれる(ストーカーや無言電話を考えれば理解しやすいかもしれない)。

一般的な小説が、そういった「気持ち悪さ」を感じさせないのは、登場人物を見ている(登場人物側からいえば「見られている」)「誰か」が「作品世界を対象化する視点を持った作者」であり、登場人物は作者によって、「見られることを前提として」書かれている。
換言すると、登場人物は「自身を読者に見せている」。
そして絶対に「読者を見ない」。
だから、読者は安心して登場人物を見ることができる

対して、保坂が指摘するように『作品世界に生きる人たち以上の視点を持っていない』柴崎友香は、『作者として作品世界を対象化する視点の力を借りずに書』いているので、当然、登場人物は作者や読者はもちろん、作中の人物であっても、我々の普段の生活と同様に「自分以外の他人から見られる」ことを前提にしていない。
つまり、登場人物は「読者に見せている」という概念を持たない。
そのために、『何気ない何もない日常を描いてる』柴崎作品の世界観の中において、読者だけでなく作者自身でさえ、対象化する視点を持つことができず、必然的に登場人物と同じ視点ー登場人物から見える位置ーに立されてしまうことになる。
同じ視点に立った登場人物と読者と作者。
見ているのはどっちで、見られているのは誰なのか?
だから、柴崎友香の小説は「気持ち悪い」

そう考えると、冒頭の女性は、その「気持ち悪さ」を捉えられる、相当な力量を持った物語読みだったということが、あらためてわかるのである。

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