濱口竜介著『他なる映画と 2』

この"note"やSNS、ブログなどネットメディアが発達したおかげで、我々一般の映画好きが感想やレビューを広く発表できるようになった。
それらを投稿する人は、私も含めて、映画のストーリー(ネタバレ含む)や個人感想、主役を中心に目立った(気になった)俳優の批評(好評/批評どちらも)などを書いていることがほとんどだ。

それはとても素晴らしい(と書くと何だか自画自賛のようにも思えるが)ことで、それは決して非難されることではないけれど、映画に関する投稿をする人なら、濱口竜介著『なる映画と 2』(インスクリプト、2024年。以下、本書)を読んでおいて損はない。
本書は、2020年代の日本映画を代表する監督の一人と言って間違いない濱口竜介監督がこれまでに様々なメディア等に寄稿した評論等を収めたものだ。

だからと言って、私は決して彼の評論・文章こそが「正解」だとか、「これこそが評論」と言いたいわけじゃない。
といっても、別に学歴云々ではないが、彼は東大-しかも、蓮實重彥総長時代の(もっとも入学時に蓮實のことは知らなかったと本書でも明かしているが)-を卒業しているのだから、真似しようったって容易には真似できないというのは本書を読めばすぐにわかるのだが、それでも映画好きの端くれを自称するのであれば、読んでおくべき本だ(ということも読めばわかる)。

なぜ「読んでおくべき」なのかというと、上に挙げたようなストーリーや感想、俳優評とは違った観方ができるといった「可能性」或いは「多義性」といったことではなく、純粋に彼のような観方をしている人が「現実にいる」という「頭ではわかっている」ことを実際に体験できるからで、映画館で同じスクリーンを観ている人の中に、そういった観方をしている人がいる"はず"と思うだけで、自分が観ている映画が少し違うもののように感じられるからだ。

本書には、瀬田なつき、三宅唱、小森はるか(敬称略)といった現代の日本映画の担い手に関する文章もあるが、ほとんどは昔の映画や洋画に関するものである。
そのため硬い文体と相まって読みづらいかもしれないが、濱口監督の「映画監督・映像作家」としての基本的なスタンス・ポリシーは、Ⅰ章・Ⅱ章約100ページ弱を読めばおぼろげにでも見えてくる。

濱口監督は「映画」にとって最も重要なのは「作り手と観客の信頼関係」であると考えている。
「どこまで観客を信じて作れるか」「どこまで作品を信じて観られるか」

濱口監督はその「信頼関係」を「ISAウィルス」という例えで説明する(「映画におけるISAウィルス問題に関する研究報告」)。
「ISAウィルス」は濱口監督の造語で、ISAは『いつの間に・そんなに・愛しちゃったの?』略である。
つまり、これまでの映画では登場人物たちが、そこに至るまでそんな素振りは一切見せなかったにも拘わらず、あるシーンで唐突に「愛してる」というセリフを言ったり、そんな素振りを見せたりと、観客が『いつの間に・(彼/彼女は彼女/彼のことを)そんなに・愛しちゃったの?』と驚き、しかしその唐突さに観客は感情を鷲掴みにされ感動してしまう(「ISAウィルス」に感染してしまう)。
濱口監督は言う。

(ISAが起こった)瞬間に驚くことができるか否か、その上でこの映画に対してどのような態度をとるのか、ということが映画を見る、また作る上での最も重要な問題なのだ。

しかし、最近は説明が無い物語は観客から「わからない」と敬遠されるため、「ISAウィルス」は『ほとんど淘汰されつつある』と濱口監督は嘆く。
『最も強力な検疫者』が『スクリーンの前に控えているのだ』。

それは、誰あろう観客である。彼らが、画面に焼き付けられたISAウィルスに感染したとして、彼らは発症から逃れる手段がある。それは、「そんなバカな」と(内心)呟くことである。呟くや否や、ISAウィルスは長い旅路の果てに観客の中で朽ちる。永遠の感染という夢はもはや露と消える。

濱口監督は、SBウィルスが世の中を跋扈している現状を分析し、そしてなお映画(鑑賞)にはISAウィルスが大事だと説く。

かつて映画のフィクションを支えていたのは、観客の意志というよりは、ジャンルと呼ばれた曖昧な約束ごとの世界、映画と観客の間の共同幻想であっただろう。その共同幻想を温床として、かつてISAウィルスはこの世界を跋扈していたのである。現代において、ISAウィルスを潜ませることがかつてよりずっと難しいのは、もはやジャンルという約束ごとの世界を映画と観客がほとんど共有し得ないからだ(こうした共同幻想は、まさにISAウィルスと共にかつて大量に世に放たれたSBウィルスによって破壊されたのではないか)。だから今こそISAウィルスのキャリア-になるには、より強い観客の意志が必要とされるし、キャリア-となった観客はほとんど作者と同等に映画に力を与える。このとき作家/観客という「/」は無化され、映画は信なき世界を生きる方法になる。それ故に、現代においてもISAウィルス、またそのキャリア-になることの意義は減ずることなく、むしろますます大きなものになって来ているのだ。

(太字は引用者による)

ところで、私自身が"note"を始めてから、やはり"note"に投稿された他の人の映画感想を読む機会が増えた。
それらは冒頭にも書いたとおり『主役を中心に目立った(気になった)俳優の批評(好評/批評どちらも)などを書いていることがほとんど』で、それは全く問題ないのだがしかし、濱口監督のこの言葉を頭に入れておけば、また違う観方ができるのではないか。

しかし無論、演技と演出は相互依存的なものだ。一本の映画が監督ただ一人の作品ではないのと同様に、一人の役者の演技は個人の所有物ではない。

「アンパン-『麦秋』の杉村春子」

350ページ強の本書の約3分の1を割いて書かれる「ある覚書についての覚書-ロベール・ブレッソン」は圧巻だが、これを読めば、濱口映画の代名詞との言える所謂「濱口メソッド」がロベール・ブレッソンに強く影響を受けているのがわかる。
もっとも彼は、「濱口メソッド」について、こう述べてはいるが。

皆さん、別の仕事があるので、セリフを覚えてこなくても責められない(笑)。だから『本読み』を何度もやったんです。すると副次的効果としてだんだん声が変わっていった。普段言わないようなセリフだけど、繰り返し言ううちに体がリラックスし、人間性が素直に表れてきた。

2021年11月19日付朝日新聞朝刊「万田邦敏監督×濱口竜介監督 対談」

ロベール・ブレッソンについては、濱口作品『ドライブ・マイ・カー』(2021年)主演の西島秀俊(シネフィルとしても有名)が、公開時のインタビューにこう語っている。

濱口監督とは初仕事だったが、同じものに「衝撃」を受けた共通体験があった。2000年のジョン・カサベテスの特集上映だ。カサベテスとロベール・プレッソンの本を貪るように読んだものの、うまく演技に結びつかず「封印」していたが、監督の勧めで再び向き合った。「読み直したら素晴らしくて。付箋がびっしり貼ってあって、20年も前のことがすごい射程で返ってきた。もう一回、チャレンジする時期なのかな」

2021年8月13日付朝日新聞夕刊

何度も云うが、映画は知識や理論がなければ楽しめないわけではない。
逆に、そういったものが邪魔をして素直に作品を楽しめないことだってある(かもしれない)。
それでもやはり、映画鑑賞が趣味である人ならば、本書を読んでおくべきだと思う。


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