「劇評」を書く人必読~西堂行人著『新時代を生きる劇作家たち 2010年代以降の新旗手』~

この"note"やSNSなどに「劇評(というハッシュタグを付けて)」書く人必読の本だと思う。
何故なら、「感想」ではなく「評す」という観点からみて、我々一般の観客は、劇作家の「作家性」について俯瞰的・網羅的に知る術が少ないからである。
劇作家の思いは、ほとんどの場合において、ある一つの作品についてパンフレットに寄稿された短い文章や、インタビュー記事で知ることになるが、作品(或いは提供する劇団など)ごとにカラーが違って、いくら観劇を繰り返しても、そこから劇作家の「作家性」を見いだすことは(特に、ただの観劇好きにおいては)ほぼ不可能だ。

そこで西堂行人著『新時代を生きる劇作家たち 2010年代以降の新旗手』(作品社、2023年。以下、本書)の出番だ。

本書は、演劇評論家の西堂行人氏が、明治大学教授だった時期に公開授業の一貫として行ったトークイベントをまとめたもの。
対談相手は、タイトルからもわかるとおり、2010年代以降から2024年現在において演劇界で活躍する1970年代生まれの劇作家たちーシライケイタ(1974年生まれ)、古川健(1978年生まれ)、瀬戸山美咲(1977年生まれ)、長田育恵(1977年生まれ)、中津留章仁(1973年生まれ)、野木萌葱(1977年生まれ)、横山拓也(1977年生まれ) (いずれも敬称略)ーだ。
観劇好きならば、彼ら/彼女らの作品の評判を聞いたことがあるだろうし、また実際に観たこともあるに違いない。
観劇に縁がない人でも、たとえば、長田育恵はNHKの朝ドラ『らんまん』(2023年)の脚本を書いているなど、テレビや映画などで作品を観たことがある人も多いだろう。

西堂氏は『必ずしも目新しい形式を売りにしているわけではない』としながらも、彼ら/彼女らの劇世界を『新時代』と規定し、二つの特徴を挙げる。
一つは『言語の探究』、もうひとつは『歴史の描き方』。
聞き手の西堂氏がそう規定しているから話の流れが自然とそちらに向かってはいるのを差し引いても、本書を読む限り、彼ら/彼女らが『言語』『歴史』についてかなり強い意識を持って作劇していることは間違いない。
彼ら/彼女らは「社会派」と呼ばれることも多いが、全員がそれに違和を感じている。何故ならば、「物語」はいつの時代を描こうと我々の世界(社会)と繋がっており、(物語)世界を描くことはつまり「社会」を描くことに他ならないのだから、「社会派」という枠自体がおかしい、ということだ。

西堂氏は、それを踏まえて「劇評を書く」ということについて言及する。

西堂 ようやく今の時代になって、そういう(社会的・歴史的な)ことを対象化しなくちゃいけないっていう問題が出てきた。そこに手をつけないで、ただ趣味でやってます、好きなことやってますじゃダメだっていうことなんだ。だから、学生に劇評を書いてもらう時も、「好きで観てきたものを書いてきてもしょうがないよ」って言ってるんです。好きなことを書くのは趣味の領域で、学問として何かを対象化していくときには、それにどういう意義があるのか、社会的にどういう意味があるかってことを踏まえた劇評でなければ、って言ってるんです。だから対象にすべきものが、でかい、そのでかさにどう気づくか、だと思うんだけどね。

シライケイタ 第2部

劇作家は物語を紡ぐだけではない。
演劇はある意味「言葉」で構成されているものだから、当然、セリフにもこだわる。
しかし、生身の人間が観客の前で話すのだから、ただ意味が通ればいいとか、カッコいい、刺さるような「名言」であればいいわけではない。

長田 (前略)結局台詞っていうのは音のつらなりなんです。私たち劇作家って<意味>で書きたくなっちゃうんですけど、重要なのは<音>の方なんです。(略)ホリプロの『羅生門』という作品で満島ひかりさんとご一緒して(略)向かってくる山賊に奥さんが発するセリフとして、私は「来ないで」っていう言葉を書いたんです。「来ないで」、たった四文字じゃないですか。(略)でも満島さんはこの台詞を「言いたくない」と。満島さんご自身もなぜそれを言いたくないのかわからない。私はその様子を稽古場で見ていて、考えて、結局採用したのは「近づかないで」っていう台詞です。なぜかというと、「来ないで」だとオ音が最初に来るでしょう?「お」って奥に向かう音です。だから、まだ負けたくないのに、もう負けを認めてる音に聞こえるんです。でも「近づかないで」だとイ音で鋭くなる。(略)文脈で選ぶなら「来ないで」のほうが美しいけど、台詞の音としては「近づかないで」っていう言葉のほうが俳優にやりようがある。

長田育恵 第2部

「社会と繋がっている」という点においても、長田は現状をこう感じている。

長田 女性劇作家たちが、上の世代の男性劇作家が書いている、「男性に都合のいい女性登場人物たち」が嫌だって言い始めたんですよ(笑)。例えば、お互いが観に行って、先輩から「どうだった?」とか聞かれると、「嫌でした」と言うようになってきた。最近は女優たちも反発するようになってきて、そういう登場人物自体が減っていっている。もう、そういうものを書くのはやめようと、いう流れはありますね。

長田育恵 第2部

或いは、ただただわかりやすくて楽しめればいいという「エンターテインメント型」の芝居について、中津留は『(価値観の多様性という点で)いろんな人がいるのがいいんですよ』(引用者註:若干、恣意的に引用しています)としながら、こう語る。

中津留 音楽の話で、バンドが「昔はよかった」「(メジャー)デビューしてからつまんなくなった」みたいな話をされることがあります。大人がつくった音楽にはめていけば、みんなにとって聴き心地のいい曲になって売れるかもしれないけど、果たしてそれが良いことなのかどうかっていうことはもう一度考えなきゃいけないと思います。お芝居も、みんなが観やすいお芝居だけが良いのか。そこに創造性や新しさはあるのかっていうことですよね。新しさっていうのは芸術家の大きな使命として絶対に必要です。

中津留章仁 第2部

私は、2024年7月に上演された「iaku」という劇団の公演『流れんな』の感想にこう書いた。

広島県の、地域会社とはいえ全国に支店のある食品加工会社本社のお膝元である、とある漁師町の小さな食堂にいる5人の男女が100分間で交わし合うのは、互いの「倫理観」である。
(略)
本作においても、多様な「倫理観」が提示されるが、物語(作者)はそれらのどれについても思想を押しつけたり誘導したりしない。
(略)
本作が目指すのは恐らく、観客に「真の多様性とは何か」を考えさせることではないか。

『流れんな』の作・演出を手がけた横山は、自身の書く芝居について、本書でこう語っている。

横山 そうですね。(様々な「正義」に対して)これは答えを出せない問題だ、もうほとんどのことが現在の視点から捉えがたい現実といいますか。でも自分自身の現在の視点で書き留めなきゃいけないことってたくさんあって、それに答えを出すことが正解ではないとは思うんですよ。
(略)
横山 ネットで探せばいろいろなところで答えは出ていて、どれを自分で拾うかっていうのは演劇じゃなくてもできると思うんです。演劇で何ができるかっていうと、さまざまな視点をいっぺんに提示して、そんなの答えようがないじゃないかっていう思考を舞台上で、まるで自分が立ち会っているというような感覚で深く体験するっていうことだと思います。なので、何が演劇に向いているかというと、その問いを問いのまま提示する。物語は何らかの完結を迎えられると思うんですけど、問いの答えを出すことがエンドじゃなくていいのかなと思います。

 横山拓也 第2部

自戒も含めてだが、「劇評」としながらも、あらすじや作品のテーマを自身の感想を交えてあげつらっているものが多い気がする。
「劇評」において、作品のテーマは「ゴール」ではなく「スタートライン」であり、作品のテーマから、そのテーマの妥当性、物語の妥当性、役者の芝居や舞台の展開、装置、音響もろもろの妥当性が検証されていくのではないか。
まぁ、我々はただの観劇好きでそんなことを考えなくてもよいのだろうが、とはいえ、安くない観劇料を払い時間を費やして「わざわざ」観るのだから、ただ「面白かった」ではなく、作家性も含めて色々な見方を楽しめた方が、コスパ的にも絶対に良い。
特に「劇評」を書く人であれば、本書を読んだ後、きっと自身の書くものが違ってくるはずだ。






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