会話でキャッチボールできているか?~三木那由他著『言葉の展望台』~
よく「会話はキャッチボールだ」と言われる。
しかし実際のキャッチボールと違って、会話のボールは見えない。本当に相手に届くようなボールが投げられているか、或いは、本当に相手は自分のボールを受け取っているか、幾度となく不安になる。
しかし、三木那由他著『言葉の展望台』(講談社、2022年。以下、本書)を読んで、相手が取りやすいようにわかりやすい球を投げたつもりなのに、相手は難しいボールだと思っているかも、という新たな不安が芽生えた(もちろん、逆の立場についても)。
それは大人数での会話だけでなく「1対1」の会話であっても、いやむしろ「1対1」の会話だからこそ不安になる。
著者は、温又柔著『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)を例に挙げる。
主人公の桃嘉は専業主婦。夫・聖司の稼ぎだけで生活は成り立っているけれど、それ故に夫が求める「家庭」に縛られて自分を失ってしまっていると感じた桃嘉は、夫に「働きたい」と申し出る。
本書の著者は、『自立を求める「甘えてたくない」は夫の稼ぎへの心配へ(略)聖司によって変質させられる。(略)だが問題は、伝わらないということそのものではない』と言う。
では、何が問題なのか。
つまり、「伝わっていない」のではなく、支配者によって「変質して伝わってしまう」。
こうした『コミュニケーション的暴力』は、夫婦間だけでなく、立場(或いは序列)の違いによって、日常的に発生している。
たとえば、著者は大学の教員だが、「先生-学生」の師弟関係になるのを嫌い、「『先生』呼びはやめてください」と学生たちにお願いしようと思う。そうすれば、学生たちは「先生」とは呼ばないはずだ。
しかし、と著者は考える。
「夫/妻」「教師/生徒」「上司/部下」「先輩/後輩」「親/子ども」……
立場(或いは力関係)の違いによって、対等なはずの会話に「支配者」が現れる。
著者は言う。
これは、自分自身が一方的に「自分の言葉が通じない」被害者の立場に置かれることを意味しない。
「コミュニケーション的暴力」「意味の占有」が相手との力関係によって発生するなら、無意識のうちに、自分が加害者(支配者)の立場に立っていることだって往々にしてあるだろう。
会話によるキャッチボールは、公園や河川敷で見られるような、のどかなそれでは、きっと、ない。