三谷一夫編著『俳優の演技訓練 映画監督は現場で何を教えるか』

私はこの"note"で舞台や映画の感想を書いているが、「俳優の良し悪し」を評することがほとんどない、というか、できない
何故なら「俳優の良し悪し」がわからないからだ。
とはいえ、私だって映画を観て俳優に衝撃を受けたり、泣いたり笑ったりする(頻繁に)。
しかし、その衝撃を受けたり泣いたり笑ったりした理由が、俳優の力なのか、セリフを含めた物語の力なのか、カメラワークや照明・音響・編集の力なのか、それとも監督の演出力なのか……
わからない、というか、その全ての力によって私の感情が動いたと思っていて、だから私の拙稿は必然的に、「何故、そのシーンで私の感情が動いたのか」を考察するというメンドクサイ文章となる。

ちなみに、「俳優の良し悪し」はわからないと言いながら、近年、特にテレビドラマにおいて賞賛の意味で使われる「怪演」なる評価について、私はそれが「良い演技」と思ったことは一度もない。何故なら、それは「ただの記号」だからだ(断っておくが、ここでは、そういう評価を受けた俳優自身に言及しているわけではない)。
私は、「演技」というのは究極的には「何もしない」ことだと思っている。
「カメレオン俳優」という例えがあるが、これは「どんな作品にも染まる」ことではなく「どんな作品世界の中においても違和を感じさせない」ということである。

映画監督は自身の作品に対してどのような俳優を求めているのか。
私は俳優になりたいと思ったことなど一度たりともないが、三谷一夫編著『俳優の演技訓練 映画監督は現場で何を教えるか』(フィルムアート社、2013年。以下、本書)を手に取ってみた。

本書は三谷氏が『代表を務める「映画24区」で行われた映画監督による俳優ワークショップをもとに「俳優の演技訓練の重要性」を書き記し』たものだ。
登場する映画監督は24人。2013年刊ということで、監督のデータ等は古いが、「映画における演技」はある程度の普遍性を持つので参考になる。

最初に登場する井筒和幸監督は、冒頭でいきなりこう発言している。

今テレビをつけるとドラマでは俳優が芝居らしい芝居をしています。
「芝居らしい芝居」って何かわかりますか?あなたは友人や恋人から何か隠し事を問い詰められて「もう、下手な芝居しないでよ!」と言われてしまった経験はありませんか?
人間は普段から意外と芝居をしているものです。でも俳優である皆さんはこのように気づかれてしまう「芝居らしい芝居」を芝居だと思ってはいけません。「気付かなかった」「騙された」「翻弄された」というのが本来の「俳優の芝居」です。緒形拳さんは「今日の芝居よかったね」なんて言われるのは最悪だとよく仰ってました。

映画の感想などで、賞賛の意味で「俳優の芝居がよかった」と書いたのに、俳優は逆の意味で捉えてしまう可能性がある、ということだ(私も気をつけることにしようっと)。

同様に前田哲監督は、名優の言葉を引用して説明する。

俳優の柄本明さんが「すべての人は名優である」と仰っていますがこれはどういう意味かわかりますか?カメラもない、監督もスタッフもいない、つまり日常に生きている人たちは当たり前のことですが何事も自然に振る舞っています。俳優もそれと同じようにやればいいのですが、なかなかうまくいかないのですね。

何故『うまくいかない』のか?
安藤モモコ監督は言う。

人によっては、変な癖がついたまま芝居をしていることがあります。語尾を伸ばす、台詞の度に身体が動く、どうしてもポケットに手を突っ込んでしまう…これらの「癖」は、普段の生活において持っている癖ではありません。芝居をしているという意識から、無意識に出てきてしまう不必要な「癖」なのです。
間が持たない事をごまかす為の「癖」が多く感じられます。演者にとって、何もせず、ただ立っている事ほど、難しい事はないでしょう。どう観られているか不安になってしまうから不必要な自意識と「演技している」と実感したい意識が働き、「癖」が出てしまうのではないでしょうか。(略)例えば、煙草。じっとしていられない俳優さんに煙草を持たせると、間が埋まるので落ち着くようです。

3人の発言をみても、どうやら「何かをすることが演技」という意識を持った俳優はあまり評価されないようだ。

「芝居らしい芝居」や不自然な演技が敬遠されるのは、『映画とは究極的に大きな「嘘」をつくこと』だから、と言うのは谷口正晃監督。

脚本は作り事、登場人物は架空の存在-スタッフとキャストが共闘して嘘をつくのが、映画を撮るということ。だけど、ただつくだけでは、嘘は嘘のままでしかありません。どこまでも真剣に嘘をつくからこそ、真実が宿る瞬間がある。それが良い映画の条件であり、自分もそういうものを目指して監督をやっています。

私はこれを読んで、「嘘」というのが映画とテレビドラマの違いなのではないかと思った。
冒頭に挙げた「怪演」がテレビドラマで評価されるのは、それが『「嘘」の記号』だからではないだろうか。
テレビドラマは、テレビ受像機で見ようがスマホやタブレットで見ようが、「日常の一部」として存在している。
視聴者は、忙しない日常の中で『真剣な嘘』などは見たくない、疲れるだけだと思っているのではないか。
その点「怪演」は『これは「嘘」ですよ』というわかりやすい合図であり、だから視聴者は「これは嘘だ」と安心して見られる、「嘘」だとわかっているドラマを気軽に楽しんで、日常の疲れを癒す、ということなのではないか(明らかに「嘘」だからこそ、視聴者はSNSなどで気軽にツッコミを入れることができる。『真剣な嘘』だと、ある程度身構えなくてはならない)。

閑話休題。
映画において『真剣な嘘』をつくために最も重要な事を、筧昌也監督が示唆している。

映画の演技で最も必要なこと、それは「作品への理解」です。演技とは感性や感覚でするものではありますが、それはカメラが回ってからの話です。脚本を渡され、読み込んでいく段階では理解力を働かせ、物語の構造や脚本の意図を体系的に把握してください。

(太字は引用者による)

つまり、「理解力を働かせて体系的に把握」することによって、スクリーンの中に違和感なく居ることができる、というわけだ。

本書は俳優のために書かれたもので、だから、テクニック的な要素もふんだんに入っていて(例えば、映画俳優ならではのテクニックとしては「カメラのフレームの中で演技しなければいけない」とか、「カット割りがあるため、カットごと(「テイク」ではないことに留意)の演技がブレない」とか)、それらは映画鑑賞の際にも、きっと役に立つ。

「映画評」や「映画感想」などを投稿する際に留意する点として、平山秀幸監督の言葉が参考になりそうだ。

映画ではどんなキャラクターであれ、シーンに登場したからには意味が発生します。仮に、意味が伝わらないキャラクターだったとしても、それは「意味が伝わらないキャラクターがいること」に意味があるのです。

映画は特に、撮影だけでなく編集においても監督らの完全なコントロール下に置かれている。従って、劇中のシーン、セリフ、カット割り、音楽など、全てに何らかの「意味」「意図」があると思って間違いない。
「映画感想」などを投稿する際には、作品が内包する「意味」「意図」をどれだけ汲み取れるか、が鍵となるのではないか。





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