「人生はゲームなのか?」を手掛かりに「哲学」を知る~平尾昌宏著『人生はゲームなのだろうか』~

『人生はゲームではない』

平尾昌宏著『人生はゲームなのだろうか』(ちくまプリマー新書、2022年。以下、本書)はそう結論付ける。

いきなり結論を書いたが、別に"ネタバレ"ではない。
本書の趣旨は結論ではなく、それが導き出されたプロセスを「知る」ー正確には、「結論は他所から与えられるものではなく、自身がプロセスを経て導き出すものである」ということを「知る」ーことにある。
そのプロセスは「考える」ことだと本書は説く。
何やら難しそうに思えるが、本書を開くのに勇気や心構えは不要だ。
何故なら、本書は、(たぶん)中高生向けに書かれたものだからだ。
そうだからと言って、侮るなかれ。
本書は、"本来の意味での"「哲学とは何か」を教えてくれるのである。

最近(でもないのかもしれないが)、「哲学」とは、「世の中の不安、不満、不条理」について「それらの本質はこうだ! だからそんな世の中で生きづらいあなたは、こうするべきだ!」と、自分の生き方を指南してくれるものだと思っている人がいる。
「世の中の本質は哲学の長い歴史から既に導きだされていて、(現代の)哲学家はそれを教えてくれる人」と。

確かにそんな風に書かれた「哲学書(を装った本)」が度々売れているらしい。本書も一見、その類に思える。

(略)実を言うとね、こういう問題にも答えを出す方法があるのです。
いやいや、「さあ、こういう難しい問題があるけど、自分でも考えてみよう」といったごまかしじゃなくてね。だから、「これが答えですよ」ってことは今すぐでも言えるわけ(略)

P27(太字部、原文では傍点)

しかし、著者は期待を裏切り、"本来の意味での"「哲学」は、そのようなものではないと説く。

でも、答えだけ見ても意味はないのです。
いやね、よくあるんですよ。「ごちゃごちゃ説明は要らないんで、答えだけ、結論だけ言ってくれます?」って質問してくる人。そりゃ、言ってもいいんだけど、そうすると「納得できないなあ」とか言うわけ。

P27

たとえ「世の真理」というものがあったとして、それで自身が納得できるわけではない。
つまり、「哲学」は世の真理を解説するためのものではなく、自身が納得できる答え(らしきもの)を探し続けるものだ、と。

まぁこう書いても、ネットの”ネタバレ”記事やファスト映画などで「『結論(オチ)』だけ分かればいい」という人はいるだろう。
別にそれはそれで構わない。それがその人の生き方なのだから。
しかし、結論(オチ)だけ知って、それが何になるのだろう?
という自問は、一度くらいしておいても良いのではないだろうか。

『人生はゲームではない』という結論(オチ)だけ知っても、大して役には立たないだろう。SNSで呟いたところで、「それが何?」とか「そんなことは当然だろう」と云われるのが(それこそ)オチだし、それ以上突っ込まれても何も言い返すことはできないだろう。

本書を(ちゃんと)読んで、共に考えていれば、少なくとも自身の中で『人生とは何か』『ゲームとは何か』について、何かしらの「すべ」が身についているだろう。
そして、それらを身につけてきたプロセスそのものが、「世の中のあらゆる事柄」に応用できると気づいているはずである。
本書はこう教えてくれている。

「理解する」なんて言うと、「知らないことを知る」っていう意味だと思っている人がいます。でも、実はね、「分かる」とか「理解する」っていうことのかなりの部分は、「今まで知らなかったことを知る」というより、「なんとなく知っていたけどはっきりしていなかったことをはっきりさせる」ことだったり、あるいは、「自分では気づいていなかったけど、暗黙のうちに前提にしていたことを自覚する」ことだったりするのです。これが(略)「自分の心に聴く」ということです。

P38

人生はもちろん、小説、映画、恋愛、勉強etc……
結論(オチ)しかないのではなく、それを真に「理解」するためには、そこに至るプロセスこそ大切なのである。
「自分の心に聴く」ための道具が「哲学」である。
本書で道具を手に入れられる中高生が羨ましいが、大人だって遅くはない。
まだ間に合うはずだ。

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