文明の進化と人間の進化~富士正晴著『新編 不参加ぐらし(荻原魚雷編)』~

昔の作家が書いた文章を読んでいると、「昔も今も人々の悩みや危惧している事って変わらないんだな」と思う。

書評家の荻原魚雷が編纂した、小説家・富士正晴(1913~1987年)の随筆集『新編 不参加ぐらし(荻原魚雷編)』(中公文庫、2023年。以下、本書)にこんな文章を見つけた。

(前略)「ねばならぬ」とか「許せない」という決まり文句のつくものを疑う。「ねばならぬ」のなら早速そのようにやってもらいたい、「許せない」なら許さず、その対象を完全に押さえこんでもらいたい、その上でそう言ってもらいたいという気がしはじめたので、宣言やら抗議というものが何やらキナクサイ感じになって来ている。
これはそのような運動に対する不信感であるみたいにみえて、実は自分自身に対する不信感かも知れない。
マスコミュニケーションが加速度的に発達して、世界中のことが粗くではあるが広く知らされるようになって来て、却って自分自身はバラバラにされ、長持ちのする意見など持てぬようになったという気がする。今思っていることが、又すぐに変化するような気がする。そのような知らされ方しかしていないで、それを自分の中で考え究めて見るひまがないほど、忙しく多量すぎる情報があり、又、現実があるという気がする。
世界は一つなどという方へ身が傾かず、いや、いつまでたっても世界はばらばらかも知れんと思う。そう簡単にはゆかず、一つにひょっとしてなったところで、又、必ずバラバラになる人類の運動が生まれてくるという気がする。

「ああせわしなや」

この随筆(エッセイ)が発表されたのが1975年で、そこから約半世紀経って『世界中のことが粗くではあるが』ではなく『細かく仔細に』にはなったけれども、そこを変えてしまえば2023年現在の世の中のことだと捉えることに疑義は生じないだろう。

こうした文明の進化とそれによる大衆の変化を憂うというのは、何もこの半世紀だけでなく、過去よりずっと連綿と続いてきたことだ。

これは結局のところ、いつの時代においても文明が先に進み、人間はそれに追いつこうと必死にもがいているだけなんじゃないか。
その文明の進化との乖離・齟齬を埋めるために、人間の側が『必死にもがく』というところに、人間の側として違和感(屈辱感?)があり、その滑稽さが文明批判という形で表出した、一種の自虐なんじゃないか。

富士正晴のこの文章を読んで、ふとそんなことを思った。


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