タイトルがまさに彼を言い表している。
舞台『ブレキング・ザ・コード』(ヒュー・ホワイトモア作、小田島創志翻訳、稲葉賀恵演出。以下、本作)の主人公、アラン・M・チューリング(亀田佳明)はまさに第二次大戦時にナチスドイツの悪名高い「エニグマ暗号」を解読した男だ。
また「code」には「規約」といった意味もあり、或いは「code of conduct」とは「行動規範」を意味するが、チューリングの性格・行動は世間の「空気」からは逸脱していたと見られよう。
それは、彼が「世間のcode」ではなく「自身のcode」に忠実であったからだ。
本作のレイヤは主に3つに分かれている。
1つ目は、チューリングの家に空き巣が入り、被害者のはずが被告に転じ、やがて亡くなるまでの数年間が、主に刑事であるロス(堀部圭亮)を軸に描かれる。
2つ目は、エニグマ暗号解読を行うブレッチリー・パークでの出来事が、実際の暗号解読ではなく女性研究員パット(岡本玲)との関係を軸に描かれる。
そして、3つ目が、上記2つを架橋する実家での母親(保坂知寿)とのやりとり。
15分間の幕間を含む2時間45分の物語は、1つ目のレイヤである、ロスが事情聴取中に、被害者であるチューリングが何かを隠して嘘の証言をしていると見抜き、真実を探ろうとするところから始まる。
まず押さえておかなければならないのは、2幕の終盤で登場する若いギリシャ人男性ニコス役の田中亨が、1幕序盤で登場してすぐ亡くなってしまうモーコムを演じているのは、単なる「演劇の都合」ではない、ということだ。
チューリングはニコスに、エニグマ暗号の解読に初めて成功した時の様子を語って聞かせる(ジョン・スミス(中村まこと)の半ば脅迫によって「国家最重要機密」について固く口留めされていたが、言葉の通じないギリシャ人だから独白する、という設定は見事)。その最後、チューリングはニコスを見ながら、こう言ったのだ(このセリフに、私は少し泣いた)。
「そこに、モーコム、君もいてほしかった」
つまり、彼の性的嗜好と研究者人生には、少なからずモーコム(と、彼の死)の影響がある。
だから、モーコム役だった役者が演じるニコスに「そこに、モーコム、君もいてほしかった」と語るセリフは、とても重い。
影響を受けたという点においては、劇中でチューリングが何度も口にする「ヒルベルト」も同様だ。チューリングは「心」と「機械」を架橋する手がかりを、ヒルベルトの数理論理学の世界に見出したのである。
1899年、ヒルベルトは『「幾何学の基礎」という革命的書物を刊行し、数学界-特に若い世代の数学者たち-に大きな感動と衝撃を与えた。』[2]
少し余談だが、このヒルベルトの提唱に対し、1973年当時の数学者の森毅氏と統計学者の竹内啓氏の対談において、こう語られている。
それはさておき(長く引用しておきながら……)、『ヒルベルトの方法に、計り知れない可能性を見出した』チューリングは、1936年の春、『「計算」の歴史の転換点となる画期的な論文を書き上げる。(略)人間と計算の歴史は長いが、チューリングの時代以前に「計算」について厳密に語るための数学的な言葉はなかった。』[1]
それについては、2幕の冒頭、大学生たちへの講演というスタイルで、チューリングの口から語られる。
数学の革命児は、第二次大戦で最も重要な任務ともいえる「暗号解読」に携わることになる(つまり、この時代において、既に戦争は「高度な情報戦」だった)。
これについては、2つ目のレイヤ起動時に、ノックス(加藤敬二)によって説明され、物語にとって重要なパットが紹介される
そして、彼女の口から、「エニグマ」が如何に凄いか、が説明される……のだが、興奮気味に早口で説明されるエニグマの仕組みは観客に理解できない……というか、理解する必要がなく、彼女とチューリングの興奮で「とにかくスゴイ」ということがわかればよいのだ。
……よいのだが……
『チューリングが中心となって設計をした「チューリング・ボム(Turing Bombe)」という機械によって(略)少なくとも1943年には、毎月8万4千という大量の通信文がブレッチリー・パークで解読されるようになった。』[1]
2幕の冒頭は、この『壮大な企図』についての講演であったといえる。
この講演でチューリングは、「真空管」「コンデンサ」といった電子部品の名前を挙げている。
つまり、上述のようにコロッサスは電子式だったのだが、これがドイツとの勝敗を分けた原因の一つともいえる。
ドイツの技術者K・ツーゼは、Z1という機械式の計算機を完成させ、その後、完全な電子式計算機を計画したが、政府はそれを認めなかった。
これについては本作でも、チューリングがパットに、負けた後のことを考えて、『カミソリを大量に購入しておく』『銀を埋めておく』などと語っている。
さて、冒頭に書いたとおり、1つ目のレイヤで『空き巣の被害者が被告に転じ』るのだが、それは何故か?
その前に、これも冒頭に書いた『彼が「世間のcode」ではなく「自身のcode」に忠実であった』ことを押さえておく。
この「空気を読む」という、世間・社会を「一般化」しようとする無言の同調圧力を嫌っていたのは、本作中で何度もチューリングが言及するヴィトゲンシュタインである。
チューリングには、こんな逸話がある。
その法廷で彼は、『登録申請書に、自分が軍事訓練に同意しないと書いております』と証言し、結果、部隊を追い出されてしまうのだが、本作でこのエピソードは語られない。
しかし、本作を観た後でこのエピソードを聞くと、絶対に彼を思い出す。
「いかにも彼らしいな」と思わせるほど、亀田佳明のチューリングは完璧だった。
本作はフィクションであり、もちろん事実とは異なる。
本作でロスが疑問を持ったのは、『犯人に心当たりがある』と言いながらも、その証言が二転三転するからだ。
本作では、『数日前に出会った男』ロン(水田航生)とチューリングのやり取りが、仔細に描かれる。
このエピソードが重要なのは、ロンがチューリングの財布からお金を盗んだことに対してシラを切り通し、チューリングがそれを受け入れる、ということだ。
つまり、心を持った機械は、「明らかに嘘をついている相手の言い分を受け入れ、受け入れたが故に自分も嘘をつかなければならない」という行動がとれるか、ということだ。「心」とは、事実そういうものだ。
チューリングは、それが解かなければならない「命題」であることに気づいたのである。
彼は、この「命題」にさらに取り組むはずだった。
本作は、彼がリンゴに何かをかけて齧ろうとした瞬間に照明が落ち、終幕する。それはフィクション的フェイク、或いはギミックである。
何故なら、上記引用には続きがある。
本作でも、母親は自殺と認めていない。
自らの意思だったかどうかは不明だが、現実的に、彼は犯罪者として亡くなってしまった。
このことに対し、2009年、当時のイギリス首相ゴードン・ブラウンが政府として正式な謝罪をし、2013年、エリザベス2世女王によって正式に死後恩赦された。
引用文献
[1] 森田真生著『数学する身体』(新潮文庫、2018年)
[2] 飲茶著『哲学的な何か、あと数学とか』(二見書房、2018年)
[3] 森毅・竹内啓『数学の世界』(中公文庫、2022年。原書は1973年刊)
[4] 杉田敦著『メカノ 美学の機械、科学の機械』(青弓社、1991年)
[5] 竹内薫+竹内さなみ著『シュレディンガーの哲学する猫』(中公文庫、2008年)
メモ
舞台『ブレイキング・ザ・コード』
2023年4月7日 マチネ。@シアタートラム
ポンコツではあるがエンジニアの端くれの私としては、チューリングといえば「チューリング・テスト」(チューリングは「模倣ゲーム」と呼んでいた)だが、本作ではほとんど触れられない。
「機械」ではなく「生身の人間」そのものの関係を描きたかったということなのだろうが、本作が初演された1986年当時は「AI」がまだSFの域を出なかった、ということもあるかもしれない。
ちなみに、「AI」の観点から、2幕の冒頭の講演を見ると、概ねこんな感じかもしれない。
本作、当初は観るつもりではなかったのだが、朝日新聞2023年3月23日付夕刊に掲載された、演出の稲葉賀恵、主演の亀田佳明両氏のインタビュー記事でチューリングの物語だと知って、慌ててチケットを取った。
本作は、上述のとおり「生身の人間」の関係性とセクシャリティをテーマにしているので、予備知識がなくても楽しめるが、しかし、少しでも知識があればより楽しめる、ということで、観劇前から(ヴィトゲンシュタインについては、観劇後に)部屋の本棚を漁っていた。
朝日新聞の記事で、主演の亀田氏は、『原作の伝記も含めて色々調べましたが、性格が一つに絞りきれない。戯曲も、相手によって人との関わり方が変わっていくような作りです』、『彼は異様なほど『矛盾』に突っかかる。それは、生きていく上で矛盾が存在するのは当然、ということを認めたかったからという気がしています』と答えている。
ほとんど出ずっぱりで、膨大な量のセリフを語り続ける。しかも、彼の複雑性を象徴するかのように爪を噛んだり、言い淀みや言い換えなどの演技を含め、圧倒的で魅力的な演技だった。
その彼が自身の性的嗜好と、それが理由で逮捕されてしまうということを母親にカミングアウトするシーンで、母親役の保坂知寿さんの演技が涙を誘う。
終演後に行われたアフタートークに登壇した岡本玲さんもそのシーンが好きだと発言していたが、同じく登壇していた保坂さん本人が「お父さんは芝刈りに」などとセリフが別の物語と接続しそうになると話されていて、もう一度観たら、そのシーンで笑ってしまいそうだな、と思った。