映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず) (追記)
先日、2006年に木村カエラ氏をボーカルに迎え再々結成した「サディスティック・ミカ・バンド(Sadistic Mikaera Band)」のライブ(2007年3月7日。@NHKホール)を見返した。
といっても、ちゃんと見ていたわけではなく、BGV的に流しながら家のあれこれをやっていたのだが、加藤和彦氏(愛称・トノバン)が歌う詞に手が止まった。
本当はそんな歌じゃないし、その時本人もそんな気持ちでいたわけではないはず(だと信じたい)なのに、どうしても彼の最期と重ねてしまう。
数日後、そんな気持ちを引きずったまま、映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』(相原裕美監督、2024年。以下、本作)を観た。
本作は、「音響ハウス」というレコーディングスタジオをテーマにしたドキュメンタリー映画『音響ハウス Melody-Go-Round』(2019年)を撮影していた相原監督が、映画にも出ている高橋幸宏氏に『何気無く「トノバン(加藤和彦)って、もう少し評価されても良いのじゃないかな? 今だったら、僕も話すことが出来るけど」と言われたのが』きっかけで製作されたという(だから、恐らく本作に登場する幸宏氏は、その時に撮影されたものだろう。ちなみにこの映画の中では、サディスティック・ミカ・バンドの「WA-KAH! CHiCO」が使われている(本作でも高中正義氏のインタビューのバックで流れる))。
つまり本作は、『トノバンって、もう少し評価されても良いのじゃないかな?』=「何故評価されていないのか」に迫った映画である。
しかし私には、自ら命を絶ってしまった理由も透けて見えた。
「何故」のカギは、序盤に登場する、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)のメンバーで、生涯の盟友となる北山修氏の発言だが、その前に、フォークルについて、新生フォークルのメンバーでもあり(その後「和幸」というグループも結成)、本作のエンディング曲にも参加した、坂崎幸之助氏(THE ALFEE)の著書から引用する。
引用していて気づいたが、これで本作前半部分がほぼ紹介されている。
ということで、ついでに、サディスティック・ミカ・バンドについても補足しておく。
それはさておき(こんなに長々と引用しておきながら……)、本作序盤、精神科医でもある北山氏が重要な指摘をする。
トノバンは学生時代、長身というルックスなどによって周囲から異端扱いされていたという(周囲から異端扱いされていたことと、雑誌でメンバーを募ったことは、恐らく無関係ではない)。
大学進学で京都に戻って来た(生まれは京都だが、その後高校卒業まで東京で育った)彼は引き籠りのような状態になり、はしだのりひこ氏に助けてもらっていた、と北山氏は言う。
それを前提に本作を観ると、トノバンが孤独を恐れていたことが、ひしひしと伝わってくる。
それは、アーチストとして(人並外れるほどの)センスと才能を持ちながら、彼が常に(ソロ時のバックを含め)バンドを必要としたことからも明らかだ。
だから彼は、孤高を目指さず、坂本龍一氏や清水信之氏が証言するようにイントロやアレンジを気軽に丸投げしたりもする(先の坂崎氏の『加藤さんは若いミュージシャンを発掘するのも得意でした』という証言も、ここに入る)。
しかし、音楽だけでなくファッションを含めたライフスタイルの先進性やセンス・才能がずば抜けているが故、つのだ☆ひろ氏や泉谷しげる氏が証言するように、「横ではなく、後ろに並んでフォロワーになってしまう」人が続出することとなる。
結果、皮肉なことに、孤独を恐れる彼は自身の才能によって自らを孤独に追いやってしまう。
そんな彼と冒頭に引用した「in deep hurt」の歌詞がオーバーラップする。
本作後半は、主に彼のソロ活動に焦点が当てられる。
とにかく本物志向で、例えば「ヨーロッパ三部作」と呼ばれるアルバム群は、全て現地のスタジオで録音するという徹底ぶりだが、この本物志向が高度経済成長からバブルへ向かう-「軽薄短小」が何より尊ばれたー70~80年代という時代にマッチしなかったのではないか。
幸宏氏が指摘する「何故評価されていないのか」の一つのヒントは、恐らくここにあるのではないか。
結果、彼は裏方へ回る機会が多くなる(とはいえ、そこでも先進性は失われず、同じように先進性を持った三代目(つまり先代)の市川猿之助氏と馬が合い、スーパー歌舞伎の音楽を担当することになり、さらには先の坂崎氏が加入した新生フォークルのたった1回のコンサート(結成&解散ライブ。2002年11月17日。@NHKホール)でも猿之助氏本人が「前口上」を務めるほどの関係を持った)。
その辺りから2000年代のフォークル、ミカ・バンド再結成については本作では全く触れられないが、しかし、やはり、あれだけ「その先、その先」を追い求めたトノバンが何故過去を振り返るような再結成を立て続けに行ったのか、疑問が残る。
或いは、新たなメンバーを加えて再結成することによって「その先」を見ようとしたのかもしれない。
実際、先の新生フォークルのライブでは、オリジナルを演奏した後、新たな『イムジン河』が披露された。
それは、1番をフォークルオリジナルの1番を朝鮮語に翻訳したもの、2番はフォークルオリジナル、3番は新しい日本語詞というものだった。その、新しく書き加えられた3番は、こう結ばれる。
(2024年6月9日追記)
前日付朝日新聞夕刊に『北朝鮮、「イムジン河」視聴禁止』という見出しの記事が載った。
上記「イムジン河ー春」。
引用歌詞の前はこう歌われる。
トノバンたちの願いが届かなくなっていくことが残念でならない。
以上、追記終わり。
本作の最終盤は、本作公開に先駆けてネットでも動画が公開されている、高野寛氏編曲の『あの素晴らしい愛をもう一度~2024Ver.』のレコーディング風景。
様々なアーティストが別の時間に録音したり、何度かテイクを重ねる風景を観ながら、本作にあったミカ・バンドのレコーディング風景を思い出す。
プロデューサーとしてイギリスから招聘したクリス・トーマス氏が、2インチのマルチトラックテープの「切り貼り」を指示する(実際に「切り貼り」したエンジニアの蜂屋氏の腕(というか、手)はもちろんだが、それができたのは、演奏・録音の確かさ故だ)。
今はテープなんか使っていないし、データのコピペ等で簡単に編集できる。
時代は変わってしまった。
そう感慨に耽りながら、ふと、以前観た『麻希のいる世界』(塩田明彦監督、2022年)という映画を思い出した。
その映画の中では、コンピュータとネットの進化によって独りだけでバンドやオーケストラ並みの音楽が容易に作れ、世界中にリリースできる現代世界が描かれており、私は拙稿で、『「音楽」が、心通わない無力な存在になってしまったことに対する絶望感』と書いた。
もう、バンドメンバーはおろか、プロデューサー、エンジニア、営業担当者に至るまで、誰も、本当に誰も必要としないし、必要とされない。
トノバンが今の時代に生きていたら、どんな音楽を作って配信しただろうと思いを馳せようとした瞬間、「先見性のある彼は、この世界を予見し、それに絶望したのではないか」という考えが頭を過った。
「初音ミク」の初版が2007年にリリースされた。
コンピュータとSNSの発達により、一人で楽曲を製作し、ネットで配信できるようになるのは、2010年代に入ってから。
そして現在、そういったアーティストが、ワールドツアーを行うことも当たり前になりつつある。
人から異端扱いされるほどのセンスと才能を持ちながらも、いや逆に、それが故に、孤高となり孤独になることを恐れたトノバンは、音楽が孤独な作業となってしまうことを予見し、そんな2010年代を見たくなかったのではないか。
2009年10月16日、彼は自ら命を絶った。
もちろん、これはあくまで、「in deep hurt」を引きずった私の勝手な妄想に過ぎない。
メモ
映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
2024年6月5日。@TOHOシネマズ日本橋
日本橋の映画館を選んだのは、たまたま私自身のスケジュール的に都合が良かったからだが、本作パンフレットでトノバンが日本橋で暮らしていたことを知って、その偶然に感慨を覚えた。
映画館の音響システムで聴くと、改めてサディスティック・ミカ・バンドの『黒船』のクオリティの高さに驚く(普段は最後列の端っこでひっそり映画を観るのが好きな私だが、本作だけはスイートスポットの座席を選んだ。大正解だった)。
スタジオワークの状況からカッティングエンジニアの話に至るまでを収めていることから、恐らく相原監督も同じように思ったのではないかと推察される(もちろん、プロデューサーのクリス・トーマス氏が加藤和彦氏にとって、公私ともに人生を左右するキーマンだったことが大きい)。
ところで、1970年生まれの私にはわからないのだが、フォークルは果たして「関西フォーク」だったのか?
本作において北山修氏は確かに「関西フォーク」という言葉を口にしたし、フォークルの著作権管理とマネージメントを高石音楽事務所が担っていたのも事実だ。
確かに、URCの第一回配布EPは『イムジン河』(同時配布のLPは『高田渡/五つの赤い風船』という、レコードのA面/B面で別々のアーチストの楽曲を収録したもの。本作のエンディング曲に参加した高田漣氏は渡氏の実子)だが、アーティストは「ミューテーション・ファクトリー」であるし、そもそもURCからリリースしたのは本作にあるとおり、東芝音楽工業から発売できなくなったからだ。
『イムジン河』は強烈なメッセージソングではあるが、プロテストソングではない。
また、当時の所謂「関西フォーク」とフォークルが一線を画すのは、本作でも度々語られたように、そのファッションセンスではなかろうか。
今や関西フォークの生き証人のような、なぎら健壱氏が著書『関西フォークがやって来た!』(ちくま文庫、2021年。ちなみに、この本では、本作冒頭のオールナイトニッポンから東芝が販売権を獲得し、湊政明氏がアート音楽出版を設立しフォークルなどの著作権を管理した、というくだりまでが詳細に説明されている)で、こう指摘している。
そう思ったのは、トノバンが『生まれは京都だが、小学3年ころまで鎌倉、その後は高校三年まで東京・日本橋で過ごした。(略)高校卒業後は、仏師だった祖父の意向で京都の龍谷大学に入学』と知って腑に落ちたからでもある。
トノバンの音楽性は、高橋幸宏・坂本龍一両氏との関係を引き合いに出せば、青山中学から立教高校・大学を経た細野晴臣氏と同じ、東京のハイソなシティボーイ(たちの交流)から生まれる、フォークの文脈とは違うハイセンス・ハイクオリティなものに近いのではないか。
とはいえ、フォークルは東京でも大阪でもなく、「京都だからこそ」生まれたものに違いない。
ということで、私は以下の指摘が一番しっくりくるのではないか、と思う。