偏屈男が営む島唯一の書店のハートウォーミングな物語~ガブリエル・セヴィン著『書店主フィクリ―のものがたり』~
ガブリエル・セヴィン著『書店主フィクリ―のものがたり』(小尾美佐訳、ハヤカワ文庫、2017年。以下、本書)は、間違いなく感動でき、満足した読後感を得られるハートウォーミングな物語だ。
しかも、ただハートウォーミングなだけではなく、ミステリーあり、ラブコメあり、ちょっとした悲劇とささやかな仕掛けがあり、そして文学論もありと、物語好きにはたまらない内容になっている。
主人公の中年男・フィクリ―は、アリス島という小さな孤島にある唯一の書店の主。元々偏屈なのに加え、数年前に不慮の事故で最愛の妻を亡くして酒に頼るようになってから、増々偏屈が悪化している。
どのくらい偏屈かというと、新刊の売り込みに来た出版社の女性担当者に「お好みの本」を訊かれて…
お好みでないものをあげるというのはどう?お好みでないものは、ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム、おそらくは才気ばしった定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵-基本的には、あらゆる種類の小細工。ホロコーストとか、その他の主な世界的悲劇を描いた文学は好まない-こういうものはフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風といったジャンルのマッシュ・アップは好まない。文学は文学であるべきで、ジャンルはジャンルであるべきで、異種交配はめったに満足すべき結果をもたらさない。児童書は好まない、ことに孤児が出てくるやつは。
よくまぁこれだけ並べたてられるものだと呆れるが、実はこの後もフィクリ―の講釈は延々続く。この偏屈丸出しのフィクリ―の趣向に異論はあるだろうが、しかし、基本的には出鱈目な理屈ではない。
読者はフィクリ―の講釈を自分の好みと重ね合わせ、或いは対比させ、文学議論として興味深く読めるだろう。
とはいえ、実際にまくしたてられた女性担当者・アメリアには相当な苦痛だったろう。当然、彼女はフィクリ―に最悪の印象を持ち、喧嘩別れの状態で店を後にしてしまう。
だが、「最悪の出会いをした二人が恋に落ちる」のは世の東西を問わず物語のセオリーであり、本書もそれをきっちり踏襲している。
日本ではこのセオリーを「ラブコメ要素」と呼ぶ。
「ラブコメ要素」の王道は「嫌なヤツだと思っていた人が実はいい人だった」と気づくエピソードだが、本書は少し趣が異なり、フィクリ―は「実はいい人」ではなく「いい人に改心していく」のである。
改心させるのはアメリアではない。彼女よりずーーっと年下の……2歳の女の子・マヤだ。
アメリアに最悪の印象を与えてしまったその夜、いつも以上に泥酔してしまったフィクリ―は翌朝、大切にしていた『タマレーン』という希少本が盗まれていることに気づいた。
警察にも届けたが、『タマレーン』は見つからない。
「『タマレーン』が無い店に、盗られて困るようなものは何もない」と自暴自棄になって鍵を掛けなくなった店に、マヤは捨てられた。置き去りにした母親と思われる女性は、後日、水死体で発見された。
マヤはフィクリ―が発見した当初から彼に懐いていた。
亡き妻との間に子どもを授かれなかったフィクリ―だが、何を思ったか、面倒な手続きを踏んでまで、マヤを養子にしてしまう。
育児経験のない、しかも『児童書は好まない、ことに孤児が出てくるやつは』とまくしたてた独身中年男が、いきなり2歳の孤児の父親になる。
フィクリ―は本好きのマヤのためにセッセと児童書を入荷し始め、そのうち児童書を見直すようになる。
それはやがて、かつて自身が『好まない』としたジャンルにまで広がってゆき、最終的にアメリアにまで到達する。
ところで、マヤが書店に置き去りにされていたのは、そこに鍵が掛かっていなかったからだが、何故母親はそれを知っていたのか?
それ以前に、フィクリ―が鍵を掛けなくなったのは大切にしていた『タマレーン』が盗難にあったからで、つまり、盗難にあった時は店には鍵が掛けられていたことになる。
では何故、『タマレーン』は盗まれてしまったのか?
このミステリー要素も物語の最後までにはちゃんと解決する。
さらに、13章の物語から構成された本書では、各章の冒頭、アメリカ文学の有名な小説のタイトルと作者名とともに、フィクリ―のコメントらしきものが書かれている。しかし、どうもその小説そのものの書評という訳ではなさそうである(作者の評でもない)。
初めはわからなかったコメントの意味が、物語の最後に至るまでに理解できるようになる(この伏線回収には、ハートウォーミングな物語によくある王道の一つが効果的に使われており、読者は安心して感動・落涙できる)。
読者は感動しながら、もう一度各章のコメントを読み直し、このハートウォーミングな物語が実は完璧なまでに計算されていることに感銘を受け、より一層の満足感に浸ることができるのである。