アイドルグループ「TRY48」爆誕!~中森明夫著『TRY48』~

「アイドル(IDOL)」とは英語で「偶像」を意味する。
故・寺山修司もある意味「偶像」だ。
歌人、劇作家…etc…など様々なことに手を出し、社会的にも劇作家で俳優の唐十郎氏との乱闘騒ぎで逮捕されたり、許可も取らずに路上や街の施設などでゲリラ芝居を敢行し逮捕されたりしたあげく、それらの奇怪な言動が何も説明されないまま1983年に47歳で突然世を去ったことにより、「寺山修司」という人物は半ば「偶像化」されている。

そんな寺山が21世紀の現代に生きていて、しかも秋元康氏の向こうを張ってアイドルグループをプロデュースするというフィクションが、中森明夫著『TRY48』(新潮社、2023年刊。以下、本書)である。

主人公は女子高生の深井百合子。
アイドルになりたくてオーディションを受けまくるが、ことごとく不合格の彼女は、ある日偶然、「寺山修司」なる人物が「TRY(TeRaYama)48」というアイドルグループをプロデュースすることを知る。
百合子は今度こそアイドルになるべく、「寺山修司」なる人物のお眼鏡に適うため、彼のことを調べ始める。
その過程で知り合うのが後輩のサブコ。
サブコは寺山のみならず、彼の周辺のサブカル事情などにも明るく、百合子はサブコの知識と知恵の助けを借りてオーディションに臨む。

物語の前半は、サブコが百合子に寺山についてレクチャーをする、ある意味で「寺山修司評伝(設定では現役だから実際の死去後は著者の創作)」的展開で、「彼がもし現代に生きていたら……」と想像させてくれるが、しかし中盤、現代なら炎上どころか確実に重大な犯罪になってしまう彼の行為(或いは性癖)がつまびらかにされるに至り、つまり「現代に寺山修司は存在できない(現に存在していない)」ことが宣言される。

現実に寺山が存在していないため、TRY48の活動についても寺山の自己模倣(著者の創作なのでこの表現は正しくないが、しかし物語としては寺山自身の自己模倣ということになる)で、当時としてはアナーキー過ぎたことが、21世紀では通用する(つまり、「寺山は早すぎた預言者」)ように、前半は痛快な展開を見せつつ、少しずつ微かな違和感が募っていく。
その違和感がいよいよ決定的に露呈するのが、終盤、「路上演劇」の自己模倣の章である。

これまで募っていた違和感は、ある意味で「寺山ですら追いつけないほど時代のスピードは上がっている」ことを暴露するものになっているが、しかしそれは、インターネットやスマホなどの「テクノロジーの進化」が寺山を追い越した、という単純なものではない。
1990年に刊行された、いとうせいこう著『WORLD ATLAS』(太田出版)が、この違和感を見事に予見している。

古来、常に商品化されながら、表向きには常に商品であることを認められなかったものが2つある。セックスとドラッグである。その2つが積年の恨みをはらさんとばかりに、激しく商品としての立場を主張しているのがネオ・シックスティーズといわれる現在だ。
しかし、こういったセックスとドラッグの反乱の背景に、'60年代的な資本主義へのアンチテーゼを見てはならない。今回のセックス・ドラッグ商品化運動は資本主義の高度化ゆえの現象なのだから。資本主義はついに禁断の木のみさえも売りに出したのだ。
中森明夫が正しく指摘している通り、純愛ブームも同じ現象である。純愛の美しさが人をひきつけているわけではない。資本主義が純愛まで商品化してしまった、というのが事の真相なのだ。
セックス・ドラッグ・ロックンロールと'60年代は叫んだが、おかげで資本主義の野郎は『おう、3つともいい商品じゃねえか』とうなずいてしまった。
そして今、人間最後の砦である純愛も叩き売りに出されてしまったのである。

「純愛」まで商品化した資本主義は、21世紀を迎えてさらに高度化が進み、「アイドルの恋愛禁止」という反転行為に至り、それすら庶民の「暇つぶしネタ」として『商品化』され消費されるようになった。

本書においても、地下アイドルファンのキモヲタどもを目の前で罵倒するパフォーマンスや、'70年代社会のアンチテーゼであったはずの「路上演劇」も軽く消費されてしまう。
ここで重要なのは消費の舞台がリアルからネットに移り、リアルの体験はネット上で披露するための「ネタ」でしかなくなり、リアルの自分がどれだけ罵倒されようと、「ネタ」として(炎上ではなく)バズりさえすればいいと考えられるようになったことだ。
それは、21世紀版「ネオ・シックスティーズ」が、ネット(SNS)の登場により、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」に留まらず、あらゆる「リアルな自身に起こったこと・体験したこと」、つまり自分そのものが消費財となってしまったことを意味する。
だが、その消期限は極端に短く、あっという間にタイムラインの彼方に消える。だから、人々は常に(その上を行く)新しい「ネタ」を求め続けることになる。

本書は、その現実に寺山とサブコが打ちのめされる展開で「寺山評伝」から、2020年代における彼(及び三島由紀夫)の「総括」「断罪」に至る。

それにしても、圧倒的な知識量と論理的思考によって、寺山でさえ一目も二目も置く、サブコという存在は何だろう?
百合子は彼女をこう評す。

天才の天才たる内実、時折、口から飛び出す難解な言葉群は、正直さっぱり理解できない。けど、自分程度の女の子に理解できたら、そりゃ、天才なわけないじゃん。

いつも自信に満ち、寺山を含めたTRY48にとっての「超天才的ブレーン」である彼女は、しかし意外にも、物語の中で何度も「自分は弱い」と吐露する。

たとえば、百合子が直観で「寺山修司は弱い存在だ」と気づいたと告げられたサブコが『わたし、直観なんてない』と吐露する場面。

「知識しかない。理屈しかない。本で読んだことをずらずら並べるだけ。父性? そう聞いたら、エディプスコンプレックスとか? アンチ・オイディプスとか? ボルヘスの父と鏡の共通性とかなんとか? うん、いくらでも延々と果てしなく知識を語れる。けど、そんなのAIにだってできる。人間のやることじゃない。生きてる……価値……ない」

つまり、自身が告白しているとおり、彼女は「AI」なのだ(とすると、「神7」ならぬ「悪魔セブン」のメンバーは、サブコ=AI、男嬢カヲル・王蘭童=ジェンダー、小山デブコ=ルッキズム、大蛇姫子=メンヘラ、多重子=ネット人格、ラストに百合子=ノーブルとなるのではないか?)。
だからこそ、TRY48の活動はサブコが計画・想定したとおりの結果にならない。

「AI」は当たり前だが、「今あるもの・既に起こったこと」を大量に学習し、それらを超高速で検索し処理することによって、あたかも考えているように見せかけている
つまり、「今あるもの・既に起こったこと」が「AI」のベースである限りにおいて、どれだけデータを駆使しても導き出されるのは結局のところ「自己模倣」でしかなく、真の意味での「創造」はできない。
それを知っているサブコは時に弱音を吐き、遂に、最終章で上演される『イチゴジャム皇帝』のカーテンコールでの自己紹介に至る。

「(略)私は観念の子供だ。虚構の娘だ。形而上学的な生物だ。でも、ダメなんだ、もう、観念だけじゃあ……生きられない。(略)」

それは寺山とて同じだ。
本書の前半で、寺山名義の俳句や短歌、インタビューで語ったことなどが、誰かのパクリである(と指摘されている)ことが多いと紹介される。
とすると、当の寺山自身が「今あるもの・既に起こったこと」を基に、「天才的な」構成力を駆使して1970年代を引っ掻き回した「AI=実態はメインフレームだけの"偶像"」だったと言えるのではないか?
さらに言えば、「消費財として自ら提供する自分自身」も"偶像"であり、バズる(或いは炎上する)のは、自らをある種の"生贄"とした"偶像崇拝"の「祭り」である。

それでは『生きられない』、とサブコに言わせた著者は、物語を本物の寺山修司の言葉で締めくくる。

実際に起こらなかったことも……歴史のうちである!!

本書が刊行されたのと時を同じくして「ChatGPT」が話題になったのは偶然ではない。
偶像崇拝ChatGPT」の現代を、寺山は半世紀も前に肯定している。


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