田尻久子著『橙書店にて』

田尻久子著『だいだい書店にて』(ちくま文庫、2023年)にを読んでいて「行定ゆきさだ勲監督」という言葉に出会ったとき、著者が経営する熊本市内にある「本を売っている喫茶店」のイメージがつながった。

映画監督の行定勲さんはたまにお茶を飲みにきてくださるのだが、書店をつくったとき、いつかここで映画を撮りたいなあとおっしゃった。

それから数年後、意外にもその言葉は実現することになった。熊本を舞台に行定さんが短編映画を撮ることになり、熊本のあちらこちらで撮影することになったのだ。熊本城や菊池渓谷、早川倉庫に橙書店……見知った場所ばかり。

それが『うつくしいひと』(行定勲監督、2016年)で、カン尚中サンジュ演じる謎の男が喫茶店に併設された本棚を眺めている。その彼に声を掛けたのが橋本愛演じる喫茶店の経営者。
その喫茶店こそが、まさに「橙書店」だったのだ。

映画は2016年の3月に菊池映画祭で公開されたのだが、その翌月、熊本地震が起こりチャリティー上映されることになって。撮ったときは、行定さんもスタッフも出演者も、地震が起こることなんて知る由もない。
タイトルは『うつくしいひと』。そこには、崩れる前の熊本城の石垣が映っていた。壊れる前の通潤橋つうじゅんきょうも映っていた。そして、地震前の店内も映っていた。壁はひび割れておらず、天井も壊れていない。古い建物で、もとから傷んでいたところも多かったが、映画の中ではライトであらが見えなくなっている。よく知っているはずのその場所は、思いがけずうつくしかった。
それから半年ほどが経ち、店を移転することになった。夏頃から新店舗の工事をはじめたのだが、工事中に行定さんが立ち寄られた。ふたたび熊本の街を撮るためにロケハンをしている、と言う。『うつくしいひと』の続篇としてつくるので、移転した橙書店でも撮影をしたいとおっしゃった。

続篇『うつくしいひと サバ?』は、2017年に公開された。
お店が違っていたのはそういう事情だったのかと、本書を読んで納得した(ちなみに経営者である橋本愛は「所用で休み」という設定で、代わりに店員役で中別府葵が出演している)。
『~サバ?』は、ある目的のため来日した外国人に人探しの依頼をされた両作で主役の探偵(高良健吾)が熊本市内を奔走する話で、だからそこに映る市内の様子は、被災前の前作と対比される(そのための作品でもある)。

本書は2019年に出版された単行本(晶文社刊)をちくま文庫で文庫化したもので、巻末には2023年現在を伝える書き下ろしが収録されている。
だから20年以上のお店の歴史が綴られている。
その歴史の中に熊本大地震があり、何とかそれを乗り切って今がある。
だから大丈夫などと軽々には言えないが、それでも本書は細やかかもしれないが希望の一つになるのではないか。
2024年の年頭に、そう願いを込める。


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