年に何度か京都に行く。
ここ10年ほどは、年末年始を何のゆかりもない京都で過ごしている。
別に何をするわけでもない。観光地を巡ることもない。
日がな一日朝から晩まで、酒を吞んでいるだけ。
「別に京都じゃなくても、いいんじゃない?」
よく言われる。たしかにその通りだ。
自分でも、何故京都なのか判然としない。
作家の赤染晶子さんが、生まれ育った京都などについて綴ったエッセー集『じゃむパンの日』(palmbooks、2022年。以下、本書)を読んだ。
「(酒呑みだが一応は)旅人として京都にいる意味」が何となくわかった気がした。
私は京都に住みたいわけではない。
しかし、「京都」に出合いたい、とは思う。
たとえば、たまたま乗ったバスでの日常的な光景。
あるいは、不意に迷い込んだ路地裏にある小さなお好み焼き屋。
ガラ悪そうに見える地元のおっちゃんたちにビビるも、お店のおばちゃんの指示に素直に従って席を譲ってくれる姿にギャップ萌えする。
うっかり「京都って、本当にいいところなんだなぁ」と感激する。
しかし、いざお好み焼きを食べようとした時、そんな観光客の感激をあざ笑うかのように「京都」が正体を現す。
こんな「京都」に出合いたい。
そう思わせてくれるのは、短文で言い切る、ユーモアたっぷりの魅力的な文章だから。
彼女が通っていた自動車教習所には野良猫がたくさんいた。
赤染さんは1974年生まれ。
本書には、両親や同居していた祖父・祖母の話も出てくる。
それらの人々もユーモラスに語られるが、時にホロリとする話もある。
それらの文章は、戦争というより昭和の前半に貧しいながらも助け合って何とか生きていた庶民の暮らしを纏っている。
不勉強な私は申し訳ないことに、赤染晶子さんという作家を存じ上げなかった。もちろん彼女が、2010年に芥川賞を受賞していることもだ。
私は京都に住みたいわけではない。
しかし、京都にはよく行く。
「京都」の「謙虚な優しさ」や「かまい」、そして、その裏にある(だろう/かもしれない)「いけず」に出合いたいから。
本書は「palmbooks」という"ひとり出版社"から刊行されている。
赤染さんのことを存じ上げなかった私が本書に出合ったきっかけは、朝日新聞の記事だった。
本書を読了した後、紀伊國屋ホールで芝居を観た。
終演後に書店をうろつく私の目に飛び込んできたのは、「新・蝶社」ならぬ新潮社のマスコット。
すっくと立つ白黒のそれを見て、私は思わず吹き出してしまった。