テクノロジーで身体感覚を取り戻す~伊藤亜紗著『体はゆく』~

インターネットやVR・ARは自分の身体を「外部拡張」するテクノロジーだと思っていた。確かについ最近まで、テクノロジーはそれを目的に進化していたように思う。
伊藤亜紗著『体はゆく』(文芸春秋、2022年。以下、本書)を読んで驚いた。テクノロジーは「身体感覚を取り戻す」とも言える方向に進化しているらしい。

本書でまず驚かされるのは「自由」の意味で、我々は何となく「システムやルール等から解放された状態」を「自由」だと思い込んでいるが、実は逆だということで、例えば、保坂和志著『世界を肯定する哲学』(ちくま新書、2001年)によると、こういうことになる。

人間が自由に何かを操れるというときには、まずはそれの持つ不自由さ・・・・を徹底して受け入れることが前提としてある。
この不自由さは、(略)車の運転でも、パソコンの操作でもサッカーボールの扱いでも、すべてに共通していることだ。
(略)
さきにも書いたようにシステムというのは、車の運転でもパソコンの操作でも、すべて人間が主体的に部分を取り出すことのできるものではなくて、こちらからシステムの中へと参入していくことによってしかそれと関わることはできない。それなのに人間はこの、システムに招き入れられた状態を「習得」とか「使いこなす」という風に、自分の主体性においてそれをしていると思いたがる。

「車を"自由に"操れる」というのは、人工的につくられた「ハンドル・アクセル・ブレーキの機構やバックミラー・サイドミラーの確認の仕方や交通法規」というシステムに(自らが)練習などを通じて参入するものだし、練習しなければサッカーボールを"自由に"扱えないのもそうだ。
わかりやすいのは言語で、母語は生まれた時からシステムの中にいるから自然と"自由に"扱えるようになるが、母語以外の言語については、システムを理解しそこに積極的に参入していく必要がある。
さらに身近なことでいえば、"Word"や"Excel"を"自由に"使えこなせるようになるのは、それらがユーザフレンドリーだからでは決してない。社会からの要請に適応するため、不承不承Microsoftのシステムに合わせているうちに使えるようになってしまうだけで、だからつまり、人間が"自由になる"には「システムの中に積極的に参入」するしかなく、最初はうまくできないが、練習や実践を繰り返すことによって、できるようになるのである。

伊藤は本書の「プロローグ」にこう綴っている。

そもそも、「できなかったことができるようになる」という変化は、体にとっては非常に不思議な出来事です。
(略)
本書では、「できなかったことができるようになる」経験を、「身体の奔放ほんぽうさの発露」ととらえ、そこに注目してきます。「できなかったことができるようになる」経験は、一般には、意識的な努力の末に得られるものとして語られることが多いものです。しかしミクロに見ていくと、そこには、意識が体を手放し、追い越されていく瞬間がある。
もっとも、これは意識的な努力が無意味だ、ということではありません。基礎的な練習を繰り返し、「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を積み重ねたからこそ、体がもつ可能性を試すことができ、ふいにうまくいくやり方が見つかるからです。

本書は、『「ああでもない、こうでもない」という試行錯誤を積み重ね』る段階でテクノロジーを介在させることにより、『できなかったことができるようになる』手助けにならないか、ということを研究する5人の研究者を紹介している。
誤解してはいけないのは、それらが超越した肉体増強や超能力といった「マッド・サイエンス」的なものではないという点だ。

5人の研究者は各々違う専門分野を持っているが、共通するのは、「できなかったことができる、というのはどういうことだろう?」という、普通の人には哲学的にも思える命題に科学的な解を求め、そこから還元して、「できなかったことができるようにするには、どうすればいいのだろう? そこにテクノロジーを介在させるにはどうしたらいいのだろう?」ということを追い求めているのである。

『できなかったことができるようになる』のはテクノロジーの進化も同じだが、20世紀まではその対象が「みんな」或いは「社会(世界)」だったような気がする。
21世紀になって、これまでの「みんな」「社会」を踏襲しながらも、ようやくその視線が「個人」にも向けられるようになった、のだろう。
本書を読んで、こういう言い方は不適切かもしれないが、日々「当たり前」に暮らせている(ことに疑問を感じない)市井の人たちが、テクノロジーの進化によって、日々を「当たり前」に暮らせない人たちに気づき、そして手を差し伸べられるようになってきた、そのスタートラインにようやく立ったのではないかと、わくわくした気持ちになった。


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