二度と彼のような犠牲者を出さないために~映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』~
1972年11月8日。早稲田大学2年生の川口大三郎君が友人と談笑しながら大学構内を歩いていたところ、男たちに呼び止められ、問答無用で教室に拉致された。
友人たちが「川口を返して欲しい」と教室に行くが、暴力によって追い返されてしまう。教師たちも何度か教室を訪ねてくるが、門番役の学生たちに声をかけるだけで教室に入ろうともしない。
翌日、川口君は死体で発見された。
体中に40カ所以上の打撲跡があり、現場となった教室の床からはかなりはっきりとしたルミノール反応が出たという。
ドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』(代島治彦監督、2024年。以下、本作)は、現代の若者たちによる再現ドラマ(鴻上尚史脚本・演出)で始まる。
この再現ドラマは、観客に事件及び本作について予備知識を与えるだけのものではない。
本作は、川口大三郎さんの1年後輩で、彼の死をきっかけにその後の大学紛争に当事者として巻き込まれた元朝日新聞記者の樋田毅氏が、当時の関係者などへの取材を重ね、川口さんの死の真相に迫ったルポルタージュ『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文春文庫、2024年、単行本は2021年刊。第53回大宅賞受賞作)の出版をきっかけに企画された。
つまり、本作は、樋田氏の本を映画化したものではない。
もちろん、本作も「川口さんは何故殺されたのか」ということが主題ではあるが、関係者らへのインタビューを通じて浮かび上がってくるのは「何故、川口さんを殺したのか」であり、それが若者による再現ドラマとそのメイキング(代島監督自身が撮っている)によって、現代社会に接続されている(この構造が135分という長尺が全く気にならない仕掛けにもなっている)。
本作について書くにあたり、この事件について簡単に説明しておく必要があるだろう。
1960年代末からの大学紛争は、70年安保・ベトナム戦争に対する反対運動でもあったが、大学の運営や自治権に関する抗議運動という面が大きかった。
全国で巻き起こった大学紛争はしかし、69年の東大安田講堂陥落などによって次第に沈静化し、多くの学生が離れていった。
残った学生たちは、自ら所属する組織の中で先鋭化していき、やがて内紛(「内ゲバ」)が頻発するようになる。
早稲田大学では「中核派」と「革マル派」が対立を激化させていたが、それらは元々同じ「日本革命的共産主義者同盟全国委員会」であり、闘争理念の違いなどから分裂した。
そして、1970年8月に中核派が革マル派の学生を殺害したことにより、双方で報復合戦が始まる。
川口さんの事件は、その報復合戦の中「中核派」と誤認した「革マル派」が彼をリンチしたことによって起こった。
活動と無関係な一般学生を殺したことにより、一般学生たちが一斉に抗議し「反革マル」を掲げるが、これには、大学当局が革マル派と手を組んでいて、自治会が革マル派に事実上乗っ取られていることに対する反発の意味もあった。
一般学生は、現大学自治会執行部をリコールし(大学側は正式に認めていない)、新自治会を発足させる。そのリーダーが樋田氏である。
革マル派は臨時執行部など「反革マル」に対し攻撃を激化したが、樋田氏はあくまでも「非暴力」による解決を目指した。
と、長々書いたが、上記を踏まえて、ようやく本題に入る。
本作、川口さんの死の原因究明が不十分だとか、エンディングに対する異論もあるようだが、私自身は本作を「過去」ではなく「今」「未来」として観た。
それは、現代の若者が当時の再現ドラマを演じているのみならず、その俳優を選ぶオーディションから、俳優が役作りの一環として戦後左翼の歴史の講義を受けるとか、実際の撮影現場の様子などを捉えたメイキング映像が収められていることによる。
再現ドラマの脚本と演出は、早稲田大学出身の鴻上尚史氏で、出演俳優には早稲田大学の演劇サークル出身者もいる。
オーディションなどでの鴻上氏と俳優たちのやり取りを通じて、早稲田大学に流れた時の長さを知ることになる。
こうした裏側を見ることにより、観客はドラマが「再現」ではなく「現在」であるように錯覚する。
そうやって観ていくと、ドキュメンタリー部分でインタビューに答える人たちから発せられる言葉が、今・現在にも通じていることがわかる。
1970年に東京大学に入学した思想家・内田樹氏は、当時を振り返ってこう語る。
作家の佐藤優氏は、殺した革マル側の心理をこう分析する。
この二人の話は、現代のネット社会における誹謗中傷や分断の構造にそのまま当てはまりはしないだろうか。
このネット上での誹謗中傷・分断について、本作に印象的なシーンがある。
再現ドラマで、川口さんの友人たちが「川口を返して欲しい」と教室前で女子活動家にお願いするシーン。
なんという話しの通じなさだろうと思うが、現在のネット上(だけではないが)の「議論」「討論」においては、こうした話のかみ合わなさ、というか次元の違いをしばしば目にする。
そして自分の大義名分に憑かれてしまうと、そのために平然と、周囲や状況、常識を自分の大義の為に捻じ曲げたりできる。
それは政治に関することだけでなく、日常のありとあらゆる事柄に対して、「目的」を「大義」化してしまうことによって、簡単に行えてしまう。
本作パンフレットに再現ドラマに出演した若手俳優の座談会が掲載されているが、俳優の多くは「ドラマを完成させなければならないという思いに囚われて、周りが見えなくなった」と異口同音に答えている。
中でも印象的なのが、ドラマで「女1」を演じた琴和さんのコメントだ。
川口さん役の望月歩さんは実際の川口さんが着ていたとされる白いタートルネックを着ていたが、撮影が進むにつれて、それが徐々に赤く染まっていく。
度々報道される大手企業などによる不正などは、こうした心理から起きるのではないだろうか。
さらに本作は、分断・分裂の構造も明らかにしていく。
樋田氏らの新自治会もまた、度重なる革マル派らの攻撃に対し「非暴力」を貫けない状況に追い込まれていく。
「革マルらから身と大学を守るためには暴力で闘うしかない」ということだ。
彼らは、「非暴力」を貫く樋田氏らと対立し、かつて中核派と革マル派がそうであったように、袂を分かつ結果となる。
黒いヘルメットで武装した彼らは「黒ヘル」と呼ばれた。
そしてここから報復合戦は、他大学を巻き込んだ大規模なものに発展していく。
かつては同じ志を持っていた者たちが、やがてちょっとした考え方の違いなどから猛対立しやがて分断に至るというのは、ネットだけでなくリアルでも日々起こっていることである(そしてそれが苛めや暴力に転化するのも、我々は恐らく日常で経験している)。
ここまで、現代の若者が再現ドラマを演じることから、当時と現在をつなげてきたが、では現在はどうなのか。
世間は、大学は、「一応」平和に見える。
本作で、ドラマに出演する若手俳優たちが、ジャーナリスト・池上彰氏から戦後左翼史についてレクチャーを受ける場面がある。
そこで、一人の若者が池上氏に質問する。
それに対し池上氏は、『大学で(バリケードや武器に使われないために)机や椅子が床に固定された』と一見、はぐらかしたような答えを返すのだが、実はそれは正しい。
鴻上氏の作品、舞台『アカシアの雨が降るとき』(2021年初演)で主人公の香寿美が、現在の大学構内で演説をしようとして排除されるシーンがあるが、それは彼女が学生でないことが理由ではない。学生であっても、規則で最初から禁止されているのである。
ビラ配り、アジ活動、立て看板……それらも原則禁止か、事前許可制になっている。
すでに大学に自治はなく、学生に与えられた「自由」もほとんどない。
池上氏の答えがはぐらかしでないのは、最初から学生が疑問を持たないように巧妙なやり方であらゆる「自由」を制限しているのは、あの時代の影響であるからだ。
「自由」をあらかじめ制限しているのは、『大学側が恐れている』からだと、教育ジャーナリストの小林哲夫氏は自著『平成・令和 学生たちの社会運動』(光文社新書、2021年)で主張している。
『60年代、70年代の学生運動』の影響としては、『2000年代までには』というのは意外な気がするが、実は学生運動の影響は1990年代まで続いていたのだ。
革マル派との癒着が問題となっていた早稲田大学の顛末は、樋田氏の『彼は~』に書かれている。
つまり、『結果いま現在この場所にきて、それの結果、名残として何がある』のかという若者の質問の一つの解答が、「政治に興味を抱かせない教育」だということだ。
とはいえ、今また、学生たちは立ち上がろうとしている。
もちろん、あの頃とは違うやり方で。
2024年5月24日付朝日新聞朝刊に「多様性・SNS 転機の学生運動」という記事が載った。
イスラエルによるガザ侵攻への抗議だが、問題はそれだけではない。
つまり、学生運動は初心に返り「大学のあり様」を問うものとなりつつある。
本作ラストは、再現ドラマで川口さんの死に気づいた革マル派のメンバーが心臓マッサージをしながら「川口、川口」と大声で呼びかけるシーンの撮影風景を捉えたものだ。
本番前、鴻上氏は心臓マッサージをする俳優に向かって指示する。
その後の撮影シーンでの俳優の叫びは、胸に来るものがあった。
それは鴻上氏も同じだったようだ。
初日舞台挨拶に登壇した代島監督は、鴻上氏のこのコメントからエンディングを考えたと語った。
このエンディングには異論もあるようで、確かに川口さんの話としてはそういう面もあるかとは思う。
しかし、やっと、学校の問題から世の中にアプローチしようと立ち上がり始めた若者たちのために、過去の「内ゲバ」的な惨劇を二度と繰り返さないため、彼だけでなくそれらにまつわる全てを鎮魂する、というのは決して悪いことではないと思う。
二度と、彼のような犠牲者を出さないために。
メモ
映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』
2024年5月25日。@ユーロスペース(初日舞台挨拶付き)