「読書」について書く意味~若松英輔著『読み終わらない本』~
”note"には、本に関する記事が多く投稿されている。
"note"に限らずネット上では、大勢の人たちが本の紹介や感想、評論を書き込んでいる。私もその一人だ。
私を含めそれらを書き込んでいる人たちは、ネット上に感想などを投稿して賞賛されるためとか、恣意的なセルフブランディングのために「読書」をするわけではないことくらい、当然心得ている(と、あえて断言する)。
心得てはいるが、それにしても我々現代人は、本のことに限らず、実に多くのことを「言葉」にしてネットやSNSに書き込む日々の中で、何故そういう行為をしているのか、その意味を見失っている気がする。
そのことに気づかせてくれたのが、若松英輔著『読み終わらない本』(KADOKAWA、2023年。以下、本書)の、この文章だった。
ここにある「詩人」とは、一般にイメージする「詩」を作る者ではなく、インターネットやSNSにある全ての文章は「一篇の詩」であり、それらを書く「市井の詩人」と捉えるべきだ。
つまり、私を含め、ネット上に読書感想文や本の紹介、評論を書き込んでいる人たちは、読書によって『未知なる者から言葉を託され』『おもいを引き受け』、それを自らの言葉にして誰かに託してゆくという、歴史的作業の一翼を担っている。
だから当然、『ネット上に投稿して賞賛されるためとか、恣意的なセルフブランディングのため』に読書をしているわけではない。
『小説 野生時代』(KADOKAWA)での連載をまとめた本書は、おそらく多感期の若者を想定した「君」に宛てた書簡を通して、著者が『未知なる者から言葉を託され』『引き受け』た「おもい」を「君」に託す形で展開する。
一通の書簡にあたる各章で、「君」の前に立ちはだかり立ちすくむ、「愛」「哀しみ」「怒り」「不安」などに対し著者が、それらが何であり、「君」はどうすればよいだろうかと、場所や時代を超えた様々な本を参照・引用し、自身の経験を交え「思索」する。
たとえば、著者はショーペンハウエルの『読書について』に書かれた、『食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである』(斎藤忍随訳)という文章を、現在のインターネット/スマホ文化になぞらえる。
『(現代人の)言葉の過剰摂取』への処方箋として、著者はやはりショーペンハウエルの言葉を引く。
著者はショーペンハウエルの言葉を継ぎ、「君」に語る。
「読書」とは、多くの本を読むことや、個々の本について「思考」して完結した意味や内容を把握・理解することを目的とするのではない。
「読書」とは、様々な本と出合って「思索」を重ねることによって、或いは年齢や経験を重ねることによって、一度読んだはずの本の意味や内容が都度更新され、また新たな「思索」を繰り返すことによって、自分自身もまた更新されていく「行為」である。
都度更新されていく「行為」だからこそ、本書のタイトル通り、本は「読了」しない。
それは、青年期だろうと中年・老年期だろうと変わりがない。
本書に限らず数多の本の言葉を託された我々は、それまでの読書や人生経験を基に「思索」し、”note"やブログ、SNSを通して誰かに『言葉を託す』。
それこそが読書についての文章を書く意味である。