見出し画像

複数形の自分とサボタージュトリップ

書き出しに困る自分はどうかしている。スタート地点から全速力を出せるのは、重力が進行方向に働いている時くらい。そんな自明な部分にクルクルと椅子に座って回り続ける自分はきっとどうかしている。
なんだか腹落ちしない感覚がずっと続いていた。「何に対して」「どういう理由で」「どの程度」腹落ちしていないかすら判然としなかった。
こういった症状に効く薬があれば処方して欲しい。そう言っておきながら薬は飲まない。病院から薬をもらう時はいつも「この小さな小粒たちがまた僕を蝕むんだろうな」と無意識に感じながら強く小袋を握りしめてしまう。
陰謀説だとか「全ての薬は身体に悪く自然治癒こそが全て」なんて考えているタイプではない。ただ、病院×医者×薬の組み合わせに嫌な思い出が多いだけ。

自分という人間が抱く感情の全ては一瞬のものであり、現象に過ぎない。目を閉じて流れに身を任せておくだけで、それらはあるべき方向へ勝手に連れ去られていく。僕はこの流れを信じていたので、待った。ただ待ち続けた。
何かが崩れていく気がしていた。
皮肉なことだ。死に物狂いで積み上げたタワーが瓦解している時、不自然な違和感に気づきながらも、振り返ろうとしない。「必死で積み上げる」行動自体が目的になってしまっているよう。

”目的と手段を並列で扱ってはいけない”
シンプルな言葉だ。理解できると僕の頭も言っている。でも腹落ちしてはいない。
シンプルで強力な言葉たちは、普段はポテンシャルをその小さな身の中にひた隠しにしている。彼らはよく知っている。「シンプル」で「強力」だからこそ、時と場合を選ぶ必要があることを。時と場合がパーフェクトフィットした時に、「シンプル」かつ「強力」になれる。見せ方を熟知している。
この言葉がふたたび効力を持った。
改めて目的と手段の混同に気づいた。スタート地点では自明だったことを、コースの途中で見失っていたようだ。一体どんなコースを走らされているんだ僕たちは。
でも、気づけた。血中酸素濃度が少し上がる

2020年1月から積み上げてきたタワーを振り返ってみた。振り返る時間をとった。そして新たな気づきを得た。タワーはそこになかった。どうやら僕の走っているコースは本当に残酷らしい。全ての行動を無に帰すなんてあってはならないはずだろう。だってそんなの報われないじゃないか。全員が。
必死に続けてきた努力が意味を内包しない形骸的な存在であった。そう気づいた瞬間から頭痛の頻度が上がった。

目が覚める。頭が痛い。でも働いてお金を貯めないと大学院に進学できない。働く。頭が痛い。休憩する、心配される、病院へ行けと言われる。また目が覚める、頭が痛い。これの繰り返し。
ここまで来るともはや勲章にすらなる。偏頭痛も基本的に3日以上は続かないらしい。ならなんなんだこれは。精神的なものだろうきっと。そうあって欲しい。


そうして腹落ちしない違和感と頭痛を抱えたまま2週間が過ぎた。
いい加減に全てうざったくなった。
エネルギーの全てを目の前のことに全投下できない自分の身体も、不明瞭な未来も、意味のわからない現状も、棄却された努力も。
だから僕は走った。全速力で走った。
頭痛の時に走ると、余計痛くなる。走ることすらしんどい中で走っているんだから至極当然。
それでも全速力で走ればこの頭痛が一瞬でも消えるような気がして、自分に向かって流れてくるように見える傾斜のキツイ住宅街をただひたすらに走り続けた。登り続けた。心拍数がだいぶん上がった。

そして次の日、目的もなく旅に出た。
とりあえず最近気になっていたIt ends with usをコートのポケットに入れて、手帳と目薬とスマホとクレカも突っ込んで駅まで歩いた。
最寄駅から適当に電車に乗って、行ったことのない場所へ向かう。
完全に無目的というわけではなかった。google mapを開くとたくさんの旗がお利口さんに座っている。これ全部カフェだ。
とりあえず山の中にあって、まだ行ったことがないカフェまでの経路を開く。片道3時間。往復6時間。行こう。
折角、知らない場所へ行こうとしているのに、途中までの景色は見知ったものだった。だから小説に没頭する。BGMは久石譲の人生のメリーゴーランド。完璧。

初めての駅、知らない土地。改札が一つしかない出入り口。横に駅員が立っていて、新天地に向かう僕のお見送りをしてくれるみたい。軽く会釈をして、地上に足を下ろす。
とりあえず右。それからもう一回右。そして真っ直ぐ。地図を見るのはそこから。そう決めて、歩く。寒い、歩く。

目的のカフェは駅から20分くらい歩いたところに見つかった。少し楽しみでウキウキしていたが頭が痛かった。だから遠回りをして冒険することにした。冒険の結果見つかったものは大きなダム。特に感想を持てなかった。だから代わりにフィルムカメラを構えてシャッターを一度だけ押した。亡くなった祖父からもらったフィルムカメラは、祖父の目として持ち歩くことにしている。シャッターを通して現世を覗いてくれれば嬉しいなんて、そう思うけど。きっと祖父が見たいのは景色なんかじゃなくて祖母の顔だろう。祖母も同じく天国にいるので、カメラは必要ないのかもしれない。なるほど、通りで僕の手元にあるわけだ。

特筆すべきこともないダムを後にしてカフェへ向かう。ここで落ち着いて少し考えよう。珈琲でも飲みながら、人生を見直そう。そう思って静かな自分と共に入場。即退場。
現金しかお取り扱いしていなかったみたいだ。僕はキャッシュレス人間なので現金は持ち歩かない。コンビニまでお金をおろしにいくことにした。その間にカフェは閉店した。

田舎道で一人で声を上げて笑った。

わざわざ3時間もかけてたどり着いた目的地への入場券を忘れてしまった。それが滑稽で笑った。気分が上がったので、夕焼けを背に前方に広がる自分の影をフィルムに収めた。この影は単体のくせしてピースなんてしてやがる。お気楽なやつめ。
なんだか楽しくなった。交通費以外にお金を使ったわけでもない、誰かと話して笑い合ったわけでもないし、努力が報われたわけでもない。それでもなんとなく楽しくなった。気分の上下が激しい方だと自覚しているが、上下する気分の中でもこれは心地が良くて、透き通るようにクリアで、悪意のない上下だった。僕は僕自身にそれを許した。帰り際、空港に向かった。
鼻が真っ赤で、髪の毛も強風で踊り狂い、薄着だから寒さに凍える。それでも珈琲を買って、ただ呆然と太陽が沈むのを眺めていた。


それだけで良かった。
これだけで十分だったのだ。
たったこれだけのこと。
何も特別じゃない、何の変哲もない。
それでも急にあらゆる違和感が腑に落ちた。
そういえば、久しぶりに独り言が多かったような気がした。
僕自信との会話をやめてしまっていたのはいつからだったか思い出せない。

なるほどこれはきっとリベリオンだったんだなと気づく。
反旗を翻されていたと。
それは自分自身との会話・対話をやめて見せかけの努力に必死になり、本質から逃げようとしていた自分に対する、もう一人以上の自分からの優しいアプローチだった。

たとえ誰かが隣にいても、自分自身が愛されていると痛いほどわかっていても、どうにもならないこともある。
自戒として書いておきたい。そういう時は、自分を蔑ろにしていると。
僕の中に住む、いろんな愛すべき僕が全員でサボタージュトリップに行ってしまわないように。僕自身に愛想をつかされることのないように。
改めて丁寧に、人を生きて、人に生きて、人と生きようと思う。

なんだか全てがスッキリした感覚を味わった。
そんななんでもない日曜日だった。

168





この記事が参加している募集

BOOKOFFで110円の文庫本を買います。残りは、他のクリエイターさんを支えたいです