マイノリティへの過剰な気遣いに疲れて思うこと
おかしなもので、いわゆる「差別的発言」というのは被差別者ならそれを発言しても問題にならない。
以前アメリカのテレビ番組で歌手のブルーノ・マーズがアフリカ系アメリカ人のコーラスの男性たちを「彼らは"ブラック"だから歌がうまい」とジョークにしていた。
それは、ほかならぬブルーノ・マーズ本人が有色人種だから言えることだ。
人種、性別、性的嗜好、容姿、健康問題など、ありとあらゆるものに差異は存在する。
差異が存在する以上、当然ながら差別も生まれる。
差別については、LGBTQ+や#MeTooのようにマイノリティの存在に焦点を当てて人々の認識を「フェア」にしていくことには意義があると思う。
たとえば、時事的な問題からマスクの着用が「守るべきエチケット」になっている今、健康上の、あるいは身体的な理由からマスクを着けられない人がこの世に存在することを知るのは認識を「フェア」にするために必要なことだろう。
しかしながら、最近すこし気になることがある。
それは、「被差別者だと主張する人に気を遣う」ことが増えているということだ。
というのも、マイノリティの存在が細分化されてきたがために、人種や性別といった大きな話ではなく、もっと日常レベルで被差別者への過剰な「気遣い」が増えていると体感として感じるのだ。
たとえば、最近SNSで自分がHSPやADHD、アダルトチルドレンであることを主張する人が急増している。
実際に社会生活に支障をきたすほど大変な人ももちろんいるとは思うが、少なからぬ人がアイデンティティのブランディングとしてそういった単語を使っているように見受けられる。
私はその手の人に気を遣いたくないので敬して遠ざけるようにしているが、実際に会うと「自分は特殊な病気なのだから気を遣え」といった圧を実際に受ける。
私自身は、二十代前半で精神的な問題を抱えて一度社会生活からドロップアウトした人間だ。
病院こそ行かなかったので、自分が鬱病だったのかはたまた統合失調症だったのか分からないけれど、あまり興味もない。
今でも自分を「健康」だとは言えないと思っている。けれど、私自身は最低限に社会生活が営めているのでこれで問題ないと思っている。
と、「被差別者ならそれを発言しても問題にならない」ことを盾に言うが、私は自分に精神的トラブルがあることはまず他人には言わない。なぜなら必要がないからだ。
もし、私がそのことでどうしても他人に迷惑をかけてしまうレベルであればちゃんと伝えるだろう。それは自分のためではなく、相手のために言うのだ。
決して、自分に気を遣わせるために言うのではない。
もちろん、いろんな心の問題が名前を持って世に出ることで、自分のモヤモヤしたトラブルの答えを得る人もいるだろう。それによって生きやすくなる人がいることも容易に想像できる。
ただ、主張の必要性がないのであればあくまで自己理解の範疇にとどめておくほうがよいのではないかと思う。
なぜなら「被差別者を気遣うべき」という主張は立派な「差別」だからだ。
強い光があれば、強い闇ができる。なにかひとつの差異に着目すれば、違う差異が闇に埋もれるだろう。
そんなことをしていても、本当の意味での「フェア」な認識は育たない。
柔らかな光で、みんなが自分自身を含めあらゆるものをフェアに見る目を養っていけば、きっと誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。