裁縫の神が舞い降り、あっという間に去っていった話
長男が小学5年生の時のこと。
満員電車から解放されたサラリーマンみたいに、ランドセルから四角くなったプリントの塊がドサっと出てきた。
「なんじゃぁこりゃぁぁ??」
長男のランドセルから出てきた大量のプリントを前に奥さんが頭を抱えている。1枚ずつ、しわくちゃになったプリントを広げていく。
「もう!なんでこんなにプリント溜めこむわけ?えっ、嘘、また4,000円…何回買えばいいの?というか間にあうの?」
カタログらしきものを見ながらボヤく奥さん。どうやら5年生から授業で家庭科が始まるそうだ。
で、その裁縫セットが4,000円也。
自分が昔、使っていた時はあって当たり前だったもの。でもそれは当たり前ではなく親が与えてくれたもの。立場が変わり理解できることがたくさんある。
ちょうど長女が中2、次女が小6、長男が小5のタイミングだった。
・算数セット
・国語辞典
・リコーダー
・ピアニカ
・習字セット
・絵具セット
・彫刻セット
進級するとそれぞれのタイミングで必要になる学習教材。兄弟間の貸し借りは禁止されていない。しかし歳が近いと共用は難しい。
必要なものとは分かってはいるけど……
「算数セットのおはじきに名前書く労力に見あうぐらい使ってよ、お願い…」
「ピアニカって場所とるんだよねぇ、先だけ替える仕組みにできないかな?」
「子どもたちが使わなくなったら、これ(彫刻刀)で木彫りの熊、彫ったろかな」
小学校から「〇〇購入のご案内」の手紙がくるたびボヤきたくなる奥さんの気持ちもよくわかる。すべて3つあると片付けのスペースを確保するだけでも大変だ。
家庭科の裁縫セットか……。
ちょっと待て……。
よくよく考えると長女のおさがりの裁縫セットがどこかにあるのではないか?
長女は物持ちよく、何でも基本丁寧に使う。ちょっと可愛めのデザイン。しかし長男はそもそも裁縫セットが、どんなものかよくわかっていないはずだ。
長女が使っていた裁縫セットはクローゼットの中に眠っていた。案の定、奥さんが「これ使ってね」と言うと「わかったー」と長男。こちらもほとんど見ず、スマホゲームに興じている。よし。
喜びもつかの間。
プリントを見て奥さんがまたフリーズしていた。
あーーーそうきたかぁ。
長男のランドセル内でタイムトリップしたせいで、来週は3日後だ。
学校紹介の裁縫セットを購入すると、その中に手縫いの基礎の部分を練習するための布が入ってるそうだ。
でも、それは長女がすでに使ってしまってない。
そんな必要教材があることも忘れていたようだ。
「やっぱり新たに買わなきゃいけないということね。間にあわないよね?」
「 ………… 」
奥さんの目の奥が一瞬、キラリと光った。ここで諦めないのが、奥さんのすごいところだ。ググって製造メーカーを調べ、問い合わせを始めた。
「すみません。練習布だけ販売とか行っていませんか?」
「申し訳ありません。こちらの販売は学校さまに向けたもので一般の方への販売は行っておりません」
やっぱり買うしかないのか……。
私たちの中で学校関連産業の陰謀論が渦巻く。
「誰かに借りれるものでもないし、もう買うしかないね」
「 ………… 」
すっかり元気がなくなって横になりスマホを見ていた奥さんの動きが止まった。
画面を凝視しながらゆっくりと身体を起こし、背筋を伸ばす。
「ゴッド……」
「ゴッド……」
「神がいた…」
藁にもすがる思いで見たメルカリに神がいた。
「350円だよ!すごくない!?800円でも買いたいぐらい嬉しいんだけど。しかも即日配送!神だね、ソーイングゴッドだよね」
「ソ、ソーイングゴッド……」
どうやら興奮し過ぎて、奥さんに裁縫の神が降りてきたらしい。
こんな感じだろうか。でもとにかく良かった。
ふと出品した方の背景に思いを巡らせた。
新品で買った裁縫セット。
子どもが熱を出して授業に行けず、練習布は使わずじまい。裁縫道具はこれからもお家で使えるけど、これはもう不要ね。
ちょっと待って。きっとこれだけ欲しくて困っている人がいるんじゃない?
まさにソーイングゴッド。
不安を安心に変えてくれたり、誰かの不要を私たちの必要に変えてくれたり、何度メルカリに助けられたことだろうか。
子どもの成長速度に追いついていかない私たちの家計をきっとこれからも支え続けてくれることだろう。
迎えた家庭科の日の朝。
「裁縫セットの中に練習布も入れておいたからねぇ」
「わかったぁー、行ってきまーす!」
息子を見送り、しばらくしてから長男の部屋の前にたたずむ裁縫セットを見つけて奥さんが白目になった。
うちの神様(長男)に、どうすればこの必要性を理解してもらうことができるのだろうか。
必要、不要は表裏一体。
立場が変われば、理解できることが世の中にはきっとたくさんあるのだろう。
この後、私たちがこれをすぐメルカリに出品したのは言うまでもない。