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私の人生を変えた一言

毎月何かしら投稿しようと考えているのですが、今月のネタはどうしようかなあと悩んでいると、「挑戦してよかったこと」というタグがあることに気がつきました。

これを見て、真っ先に思いついたことがあります。それは「東大受験」です。身の上話になりますが、よければお付き合いください。


挑戦を決めるまで

私の愛してやまないふるさとはお世辞にも都会とは言えない栃木県のとある町で、その町の中でも三大僻地とか言われているところのひとつでした。今でこそ日本を出て就職したりと「グローバル」的な感じになっている私ですが、ルーツ的にはどう考えても「グローバル」よりも「ブドーバタケ」の方が身近な人間です。視界を埋め尽くすのは山とぶどう畑で、それ以外には単線の線路を電車がたまに走っていくだけ。端的に言ってそんな場所でした。

幼少期(上の方に見えるのが袋のかかったぶどうです)

「東大」という単語は子供の頃から知っていましたが、もちろん名前だけです。憧れることすらありませんでした。私の場合は図書館も本屋も車に乗せてもらわないと行けませんでしたから、テレビでちらっと見かける以外に東大と私の接点はありませんでした。

小さい頃の将来の夢は消防士でしたが、特に理由があったわけでもなく、あまり真剣には考えていませんでいた。なんだかんだで祖父母のぶどう園を継ぐことになるのかな、などとも思っていました。そういうこともあって中学校まではそもそも勉強のやる気がなく、試験前の部活がない期間に詰め込んで乗り切るという感じでした。

一方、当時頑張っていたのは野球です。こちらは小さい頃から身近でしたし、私の中学校の野球部は元からかなり気合が入った部活だったこともあって、それなりに活躍しました。

野球部時代

野球で推薦をもらうことも考えたのですが、同級生のいとこに桐生第一から甲子園に行った人がおり、その人に「お前みたいな奴は勉強で高校に行くんだ」と言われたこともあって、結局普通に受験をして公立高校に行くことになりました。

高校受験にはちゃんと合格したのですが、高校に入った当初はどう考えても東大に手が届くようなレベルではありませんでした。特に数学は壊滅的で、最初の因数分解の単元テストなんて赤点ライン+1点でギリギリ通過だったのをよく覚えています。典型的なド文系でした。入学当初は、地元の宇都宮大学になんとか行ければいいな、と漠然と考えていました。

私の運命が変わったのは、5月頃にあった担任の先生との面談です。

人生の転換点

よくある二者面談だったと思います。私は授業中あんまり発言しないので、先生とちゃんと話す初めての機会でもあったと思います。

病院の診察のように、机に向かった先生と、真っ直ぐ先生の方を向いて座った私。「こうやって正対しないのにも意味がある」みたいな話から始まったのを覚えています。ほー、流石に高校の先生は違うんだな、とどこかズレたことを考えます。

そして、間もなく学業の話が始まります。私はすぐに度肝を抜かれることになりました。その担任の先生は、私の最初の試験の成績を見て、いきなり堂々と言い放ったのです。

お前は東大に行ける。

……今思い返すと、普通に考えればここは「大袈裟だなあ」という反応になるところでしょう。ところが、当時の私は疑うということを知りません。あろうことか真に受けてしまいました。じゃあ、東大目指してみるか!

そうと決めたら全力投球するのが私です。寝ても勉強、覚めても勉強の日々が始まりました。

基本は5時起床・9時就寝です。寝る時間は遅くても10時で固定で、気合を入れたい日には3時半に起きて勉強しました。通学の時も電車の中で勉強、駅から学校まで歩いている時はiPodに入れた教材で英語のリスニング、帰りもほとんど毎日駅まで爆速で歩き、まっすぐ家に帰って勉強でした。3年間で学校帰りに寄り道をした記憶が1回しかありません。

私は書いて覚えるタイプなので、英単語などはひたすら書いて覚えました。単語帳の音声も毎日聞いていたので書く以外にも色々やりはしたのですが、やはり書くのが一番好きです。赤色でひたすら書いて、書けなくなったら赤シートを使って暗記カード的に使いました。3年間合計で10冊くらいになりました。これほどわかりやすく当時を物語るものはありませんね。今見ても「よくここまでやったなあ」と思います。

英単語のノート

勉強以外の思い出もたくさんあるのですが、それでもやはり勉強ばかりの高校時代だったなと思います。東大を目指すということもおおっぴらに公言して、ひたすらに上を目指しました。

色々なことがあったのですが、3年間かけて徐々に発言に実力が追いついてくるようになっていきました。苦手だった数学も、3年に上がる頃には面白さがわかるようになっていました。

努力が報われた日

そうして迎えた2013年2月25日、東大入試当日。正直に言うと、あまり手応えはよくありませんでした。割と手応えがあったのが実は数学で、一番得意だった英語の出来があまりよくなさそうだったのです。

そして、運命の3月10日。私は試験を受けた駒場ではなく、根津駅にやってきていました。合格発表は文系も理系も本郷キャンパスで行われるからです。東大に受かっていようがいまいが4月から上京することが決まっていたので、アパートの下見に行こうということで両親も同行してくれました。

私は緊張のあまり、根津の坂を登っただけで息切れしてしまいました。掲示板のところに着いた時にはとっくに合格発表は始まっていました。

そして、ついに私は自分の番号が掲示されているのを目にすることになります。感動の瞬間!……ということにはなりませんでした。というのも、私が緊張のあまり息切れしているうちに、先にスタスタ掲示板を見に行ってしまった父が私より先に私の番号を見つけてしまったのです。私が合格したことを知ったのは、番号を見つけた瞬間ではなく、父が「よーーーし!」と言った瞬間でした。ズコー。

……いずれにせよ、そこにはちゃんと私の受験番号がありました。それからのことはあまりよく覚えていません。

地元に帰ると、みんな大喜びでした。祖母なんて会う人全員に「祐亮が東大に受かった」と自慢して回るものだから、近所の人には「あのちっちゃかった祐ちゃんがねえ」的なことを言われるし、もうめちゃくちゃです。私自身は「落ちなくてよかった」という安堵の方がはるかに強く、実は喜ぶどころではなかったのですが、周りが私の分まで喜んでくれました。私が直系親族で初の大学進学者でもありました。

ちっちゃかったころ

それにしても、自分が東大だなんて。誰も夢にも思わなかったでしょう。私もいまだにちょっと他人事のような感じがしています。

実家を出る前に、片付けのついでに3年間で使ったノートをまとめてみたところ、膝下くらいまで積み上がり、だいぶ無茶したなあとしみじみと思いました。勉強ばかりだった3年間でしたが、やっと報われたと思うと本当に感慨深かったです。

高校3年間に消費したノート(高校卒業直後に撮影)

12年後

3時半に起きて、まずは石油ストーブをつける。中の燃焼筒が赤みがかり、寒い部屋にほんのりと暖かい空気が広まりだしたのを感じて、それから電気をつける。大抵は頭を起こすのも兼ねて英単語の写経から始める。そうしていると徐々に気分が乗ってきて、そのまま6時半くらいまで快適に勉強する。トイレや朝ごはんで部屋を出ると、朝の寒さがそれはそれで気持ちいい。そんな1日のはじまり。

毎日7時36分の電車に乗って学校に行く。毎日同じ電車に乗っていると、自分のように毎日同じ時間の同じ車両に乗っているメンバーが何人もいることに気がついて、なんとなく顔見知りのような気になってくる。もちろん実際に話すことはないのだが、おそらくみんな俺のことも見知った顔として認識しているんじゃないかと思う。

授業は普通に3年5組の教室で受けるのだが、3年生になって周りが受験ムードになってくると、昼休みや放課後に、仲のいい理系の東大志望の友達のいる4組の教室まで遊びに行く……ふりをしつつ、数学の知識を盗みに行くことも多くなった。最初は2人でああじゃないこうじゃないとやっていたのだが、いつしか他の数学好きの友人も何人か来るようになり、何人かで集まって数学の勉強会をやるようになった。

当初は苦手で嫌いだった数学だったが、この勉強会をやり始める頃には楽しめるようになっていた。愚直な計算で力押しするしかないことも多かったが、それはそれで自分の個性のひとつとして受け入れられるようになっていた。センスというか、着眼点の良さで格の違いを見せつけてくる理系の友人たちを見ていても、もう嫉妬心は湧かなくなっていた。野球部時代に身につけてしまった過剰な闘争心のせいで友人付き合いは苦手だったが、案外うまくやっていけるじゃないか。そう思えるようにもなっていた。

……そんな、私の青春の1ページ。そんな日々も、気づけばもう12年も前のことです。結局私は受験勉強をこなすうちに、勉強が生活習慣の一部になっていましたし、新しい知識を得ること自体も好きになっていました。

そんなわけで、東大に入った後も受験生さながらに勉強ばかりして、あれよあれよという間に学士・修士・博士と学位をとり、研究者として中国の大学で働くようになりました。比較言語学の研究者になりたいということは高校1年生の冬頃から言っていたので、いわば夢を叶えたことになります。ただ、日本を出て中国に行くことになるとは全く思っていませんでした。

目標があるとそれに気合いで爆進してしまう性分なので、タイムアタックのように生き急いだ半生だったと思います。色々なことがあったのですが、そろそろもう自分にプレッシャーをかけずに気楽に生きてもいいかなと思い、中国に来てからは悠々自適に暮らしています。

もう10年以上経ちますけれども、自分の原点というのは大切にしたいもので、高校時代のことは未だによく思い出します。異国で生活していると、余計に自分のルーツを意識する機会が多いです。今思い返しても、自分の人生で最大の転換点になったのが、あの「お前は東大に行ける」という一言でした。

オチ

……ここまでなら懐かしい話だなで終わりなのですが、この話にはオチがあります。

私の運命を変えた一言、担任の先生が言い放った「お前は東大に行ける」ですが、これ実はどうもクラスの全員に同じことを言っていたらしいのです。とりあえず東大を目指させてみて損はない的な意図だったみたいですね。

……ということは、他のクラスメートは私と同じように「東大に行ける」と言われていて、かつそれが冗談半分だったことを理解していたということになります。そうなると、私が急に東大を目指すと公言しだした時、彼らは「コイツ先生のあの冗談を真に受けたんだな」とクラスメート全員が完璧に理解していた…ということになりますね。

アホじゃん!クラスで一番のアホじゃん!

というわけで、私の運命を変えたエピソードは、同時に私がクラスで一番アホだったことを証明するエピソードとなってしまったのでした。これさえなければ感動的な話だったのに!こんな黒歴史エピソードになっちゃうなんてあんまりだ!

……まあ、こういうオチがつくところも含めて私だなあ、と思います。

先日、Twitter上でこのエピソードを投稿したところ、自分の想像以上の反応をもらってしまい、たまげました。

人生初の「万バズ」だったので、せっかくだからと久しぶりに担任の先生に連絡してみました。すると、記憶の中の先生よりも丁寧な筆致で返事が返ってきました。涙もろい人間なので泣きそうになりました。

先生の返事

思えば、高校を選んだり、東大を目指すと決めたりと、私の人生における重要な選択の場面には、いつも他人の助言がありました。研究者としての具体的な研究対象も先生の助言を聞いて決めましたし、もっと昔のことを考えてみると、野球ですら友達に熱心に誘われて始めたものでした。

それで今に至るまでうまくいっているのですから、私はよほど周りの人に恵まれていたのだろうと思います。そう気づかせてくれただけでも、改めて受験生時代を振り返ってみた甲斐はあったのかな。

文字通り人生を変える挑戦となった東大受験ですが、やはりあの時一念発起できてよかったと心の底から思います。そう考えると、この記事を読まれた方の中に受験を控えた方がどれほどいるのかは知りませんが、ここで私から最後に伝えるべきはこれですね。

君も東大を目指してみろ!

終わり。また来月!

 

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