日本芸能の原点!奈良豆比古神社にまつわる「ややこしい系譜」を徹底解説 part.2 【聖地巡礼小話vol.32】
ハンセン病を患っていたという奈良豆比古神社の人神・春日王ですが、彼には2人の息子がいました。
春日王の2人の息子たち
浄人(きよひと)王
またの名を弓削浄人。父・春日王の看病をしながら、弓矢を作って生計を立てていた。桓武天皇にその孝行を称えられ、奈良豆比古神社・神主に任命。その際、「弓削首夙人(ゆげ/おびと/しゅくうど)」と名付けられる。
元来、女性(巫女)の踊るものだったという神楽舞を初めて踊った男。彼の舞が能楽の原点《翁舞》の元となったという。弓削姓を名乗っていることから、「物部一族」説や「道鏡の弟」説も語られている。
安貴(秋)王
草花を売りながら、浄人王と共に父・春日王の看病をしていたといわれる。
Wikipediaの「安貴王」には、「歌人として万葉集に4首入集。密通によって、官位をはく奪された」と記されているが、この人物が奈良坂の安貴王なのかは定かではない。浄人と比較すると情報が極端に少ない。
「奈良坂村旧記」によると
浄人王が兄で、安貴王が弟のようだ。そして、どうやら弟の安貴王が黒尉(こくじょう:黒い面をつけた翁役)のモデルのよう。「黒尉役は浄人王だろう」と勝手に思い込んでいた。
与えられた位階・役職名が具体的に記されていることも気になった。この資料の書き手が「これは真実である」と主張したがっているのか、時に賤視されていたであろう俳優たちの価値を強く訴えているようにも感じた。
谷川健一さんの見解
と、桓武天皇との関係性、位階を授かったという記述を荒唐無稽と谷川さんは否定。
上記の情報をさらに加えつつ、谷川さんは「奈良坂の夙人が弓削浄人に固執するのは、何か特別の理由がなくてはならない」とした上で、以下のように結論づけている。
弓削一族の栄光と悲運
谷川さんの言う「弓削一族の栄光と悲運」とは?
天皇家以前に大和の地(本拠地:現在の大阪府・八尾市)を治めていた物部氏。物部の始祖は、饒速日(にぎはやひ)命である。
587年、崇仏派・蘇我氏に敗れて、物部氏は奴婢(どひ・ぬひ)に落ちた。奴婢とは賎民のこと。そんな「物部(弓削)氏の栄光と悲運に、奈良坂の夙人たちは自分たちを同一化、便乗したのだろう」と谷川さん。
ついでに言うと、物部氏とともに崇仏派・蘇我氏に抵抗したのは、中臣氏。中臣氏の本拠は、東大阪市・枚岡。物部の本拠地とは目と鼻の先である。また、中臣氏は祭祀を司っていたが、物部も軍事に携わる一方、祭祀も司っていた。
ちなみに、中臣の祖神は天児屋根命さん。谷川さんは「天児屋根命=春日大明神=宿(夙)神である」と本の中で語っている。
中臣氏と物部氏…。
またもや(縄文の)匂ひぞ出づる。
いざや いざや 見に行かん。
つづく。