私にとっての「神とは?」
考えるきっかけ
以前、「ずっとやりたかったことを、やりなさい」という本を読んだ。
その中で「あなたが信じている神、あなたが信じていた神は?」という問いがあった。
そして比較的最近、「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」という本も読んだ。
こちらでは、世界の様々な宗教について、つまりそれぞれの神について知る(垣間見る)機会となった。
※こちらの本は、読書感想#98でリリース予定。現在は、#95
これらを読んで思ったことを書いてみようと思う。
それはつまり、タイトルにもあるように、
『私にとっての神とは、いったいどういうものか?』
ということ。
感じたこと
正直に言って、私は神自体を信じていないし、かつて信じていたということもないと認識している。
しかしながら、神の存在について色々考えてみると、思いつくのはやはり物理的に身近なところでは神社があるだろうか。
そこには、神が宿っていらっしゃると理解するのが良いのだろうか。
あるいは、祀られていると考えるのが適切なのだろうか。
いずれにしても、そこに存在を感じることができる場所ということにはなるだろうが、確かに厳かな、荘厳な雰囲気と、悠久の時が醸し出す、とてつもなく落ち着いた空気を感じる。
ということは、やはり私も事実上神の何かしらの力を感じている、イコール、存在を認めているということになるだろうか。
だと仮定した時、では私はいったい神の何を信じているのだろうか?
私と神との距離感はそれほど近くはないが、何がしかを感じているとした時、それは直接的にというよりは、神に側面的・間接的に寄り添ってもらっていると考えることができるのかもしれない。
だとすれば、私の何気ない生活をそっと見守ってくれる存在である。
いわば、自然とでも言えるような、ある種当たり前の存在として「いる・ある」ということになるかもしれない。
自然=神
この自然とは、物理的な自然でもあり、”当たり前に”とか、”自動的に”みたいなニュアンスの自然でもあるのではないだろうか。
であるとすれば、仏教の唯識論的考え方にも似ていると感じた。
私が宇宙をつくり、すべての世界をつくる。
つまり、私の認識が全てをつくり出しているのだとする考え方である。
(と、素人の私は考えている。)
だとすれば、自然=神とは、私の認識そのものと考えられる。
神道で言えば、八百万の神という考え方、つまり、あらゆるものに神が宿るとする考え方がある(と、素人の私は認識している)。
以上のことを統合すると、
全ての(あらゆる)ものが神
=全ての認識が神=私自身の認識が神をつくり出している
=私たち自身も神の一部
という考え方が一定成り立つのではないだろうか。
(論理の飛躍があるかもしれないが汗)
一方、物理的自然に私たちは生かされている。
これらはすなわち、
・生きる存在としての神(神としての私)
・生かす存在としての神(神に生かされる私)
という側面があるということではないかと考えている。
ということは結論、神は存在するということになる。
とした時、「神を信じる」ということは、
「自分自身を信じ、自然を信じる」
ということであり、それを通じて他者を信じ、社会を信じるということが言えるのかもしれない。
むすびに
もう一つの結論として、私は一神教的神をまだ信じることができていないということだと認識しました。
一神教の方や、各宗教に精通する方に怒られるかもしれませんが、これらはあくまで浅学の私の感想です。
私は、どの宗教の方も否定しませんし、興味は持っています。
よって、これからもどんどんいろんな宗教について勉強を深めていきたいと思います!
様々な他者を、信じて認めます。
人権という個人が尊重される範囲を超えない限りにおいて。
お礼
ヘッダーには、青木詠一さんの作品を使用させていただきました。
ありがとうございました!!
以上です。
ご覧いただき、ありがとうございました!!