「支配/被支配」の感応性
こちらのツイートに掲載されている漫画を読んでいろいろ考えました。
子どもへの対応としてほぼ実践しているので安心しつつ、特に印象に残ったのはこちら。
これは親子関係だけではなく全方位的な人間関係の話なんだよなと再認識しました。◯◯してはいけないとマナー的に捉えるより、「支配/被支配」に対してセンシティブに捉えているか、感応性があるかということの方が大きい。このアンテナは年齢に限らず、無い人は無い。
支配に対して感応性がない人は一定数いる。パワハラやセクハラ、モラハラなどの加害者はたいてい「そんなつもりなかった」「そんなこと言われたら何もできない」というが、彼らは「支配/被支配」への感応性をほぼ持ち得ていないのだと思う。そんな人と出会ったら全力で無視してダッシュで立ち去るのが一番なのだけど、たいていは家族や学校や会社などの関係性で行われるから厄介なのだ。居場所であるから立ち去れず、権力構造があるから無視もできない。だからこそ社会的な声を大きくするしかない。個としての「NO」は当然として、「それは支配ですよ」という社会的メッセージが今後重要になると思います。
個としての「NO」は被害者側の不快や責苦、嫌悪に基づくため「あなた個人の問題でしょ」とされがちだが、「支配」は加害側の問題なのだ。そのためにも「誰も支配されるべきではないし、支配すべきではない」といった最大共通要素が必要となる。それはもう日本国憲法で保証されているので、ゼロから構築するものでもない。
70年前の先人たちが「おれたちはこうやって生きていきたい」と掲げたことに強く同意し、日常の中で意識していけばいい。おかしなことがあったら改めて声を出して、ぼくたちの最大共通要素を確認しあうことが大切で。おかしなことなんて日常の中に腐るほどある。家庭にも学校にも会社にも社会にも。ぼくたちは誰も支配されるべきではないし、支配すべきではないですよね?それは全然特別なことじゃないし、特別なことにしてはいけない。
おかしなことは日々の中にいくらでも転がっている。ぼくにもあなたにも。ぼくは誰にも支配されないし、誰かを支配したりしないぞと当たり前に気をつけて生きていくのが大切なんですよね。道路を歩くときに車に気をつけるように。ひとりで歩けるようになったら最初に学ぶように。この社会を生きるための最低限の術として。ぼくはそう思っています。