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掌編いろは/す「すべてのひとつ」
最後にシンバルが一度、鳴らされた。
それはそれはおおきな音で、鼓膜がしびれるほどだった。
わあんわああんと音の余韻がテント中に響きわたり、ふしぎなことに、サーカスもわあんわああんと揺れだした。
見ると忠実なライオンも火を吹く男も足長ピエロも綱渡りの美女も年老り顔の小人も、まるでかげろうのようにゆれている。ゆらりゆうらり融けていく。
融けたサーカスを背中に、ひとり、団長が姿を現した。
団
掌編いろは/せ「戦闘」
見つめあう。
目測をはかる。
拳を固くする。
口端をなめる。
息を吸う。
止める。
駆け出す。
叫ぶ。
吠える。
ぶつける。
すべてを。
掌編いろは/も「持っていく」
もしもし。ああ、どうも。こんにちは。はい、わたしです。
喧嘩ですか。彼と。ええ、してますよ。
そもそも彼が悪いんですよ。それだけは断言しますから。
だって、あれは彼とはじめてのデートだったんですよ。
つきあおうって言って、はじめてですよ。ふつうに考えても一番大事なイベントじゃないですか。
そこに鯉を連れていくのは必然でしょう。それもニシキゴイ。
言っておきますけど、オンナノコで彼氏と
掌編いろは/ひ「引き際」
逃げるのは今しかないとわかっていても、手も足も動かない。それ以上はだめだと言い聞かせても、視線さえそらすことができない。
つまり、それが答えなんだ。
どうしたらいいか。
進むしかない。
掌編いろは/ゑ「餌」
フライパンと卵。服と鏡。紙とえんぴつ。おおきなケーキ。ちいさなロボット。
それらをあちこちに置いて、入り口を開けた。
二足歩行のハツカネズミはまっすぐに紙に向かった。
なにか書くのか期待したが、ハツカネズミはそれをばりばりと噛みちぎっただけだった。
別のハツカネズミはフライパンと卵を手にした。
しかし料理するわけではなく、フライパンをラケットのように持って卵を打ってしまった。
まだま
掌編いろは/し「シーシュルカルデョペッラポン」
うつくしい装飾をほどこした読めない文字で書かれた本があった。
やっとその文字を読めるという人物に出会えたので、まず題名を読んでもらった。
「シーシュルカルデョペッラポンチョリリリコミア」
発音を聞いてもやっぱりよくわからなかった。
掌編いろは/み「見ない」
見てはいけない。ぜったいに。
約束を守れば永遠にしあわせがつづくだろう。
約束を破ったとたん、足元からすべてが崩壊して、なにも残らないだろう。
だから見てはいけない。いいね。
うん、わかった。
そう言って僕はふりかえって、見た。
とたんに悲鳴が上がり、なにもかもが嵐のようにごうごうと宙を踊って消えた。
ほんとうになにも残らなかった。
ほらね。やっぱりここにはなにもない。僕は笑っ
掌編いろは/め「面と角」
最近、多面体の顔色が悪いという。
どの面かわからないが、いつもより動きがおかしいのは確かだ。
ふらふらとした旋回、不協和音のような点滅、たまに震えている。
だいじょうぶか、と尋ねると多面体は困り顔でうなずいた。
しかし目は二等辺三角形を見つめている。
うつくしい鋭角が揺れると、とたんに多面体は点滅した。そういうことか。
掌編いろは/ゆ「床の表面張力」
「床の表面張力ってどのくらいあるんだい」
クラゲに聞かれて、悩んだ。
床にふれないクラゲに説明しても伝わるだろうか。
掌編いろは/き「黄身の自己主張」
今朝、目玉焼きの黄身が怒った。
白身に囲まれている状態が我慢できないと、家出した。
あとにはまるい穴のあいた白身焼きが残った。
困った。目玉焼きの半熟の黄身は大好物なのに。
掌編いろは/さ「算数のなやみごと」
ひそひそ、ひそひそ。
算数がため息をついてるよ。
ひそひそ、ひそひそ。
数字が転がっているのはそのためだよ。
ひそひそ、ひそひそ。
うわさではメダカが関わっているらしいね。
ひそひそ、ひそひそ。
ほら、心配顔した理科が来たよ。
ひそひそ、ひそひそ。
これできっともうだいじょうぶ。
ひそひそ、ひそ。
掌編いろは/あ「あやとり」
「文取り(あやとり)」という職種は、ここでは重要な役割をもつ。
まず無駄な語尾をピンセットでつまんで廃棄する。「あのぅ」の「ぅ」等だ。
やたらおおい装飾語、擬態語も最低限を残して廃棄される。
本によって中身がすかすかなのは、文取りが仕事をした後だからである。
標準語と方言は分別がむずかしく、方言専用の文取り資格試験もあるという話だ。
ちなみに廃棄された言語はシュレッダーのなかでインクに戻
掌編いろは/て「停留場」
その停留場は道にもどこにも面していない場所にある。
草原がひろがる丘の上や、海の底や、公園のまんなかのときもある。
見つけたら発着時刻を見ておくといいだろう。
だいたい夜中の頃になっているはずだから、その時刻に停留場へ行ってみてごらん。
なにが停まるのか、なにが乗るのか、なにが降りるのか、わかるから。
ただし物音も呼吸もしないで見ているんだよ。
気づかれたら、乗っていかないといけないからね。
なん
掌編いろは/え「円」
その円陣は約束のかたちだよ。
いつでもどこでも円陣を描けば、かならず来てやろう。
ただしわたしの身体が通るくらいの円陣でね。
三日月はそう言い残して、闇に隠れてしまった。
ぼくはいつまでも三日月が消えた闇を見つめていた。