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ツルピー2500

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ネパールで愛されている甘味「ツルピー」を頬張りながら画面に向かっている。大きめのサイコロのような直方体は歯応えに富んでおり、富むあまり、いっこうに崩れる気配を見せない。絶え間なく噴き出す唾液の作用を受けても平気の平左で一貫して硬いままであり、「噛み砕く」か「舐めてふやかす」しかコマンドを持たないぼくは動揺している。150円で買ったパックにはあと10個以上のツルピーが待ち構えている。賞味期限表示がないが、こうも頑健であればあと千年はもつだろう。地中深くに埋め込まれ、ヒマラヤの造山運動で鍛え上げられたかのようだ。弾力みなぎるホルモン焼きを噛み締めるときよりもいっそう悠久の時の流れに身を任せ、ネパールの色に染められることをツルピーは要求する。「口に含んで待つ」の新コマンドをひたすら押下していよう。わずかに角が落ちて丸みを帯びつつあることを励みに。

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ネパールのスイーツと聞いて、べらぼうに甘いものと想像していた。なんたって世界最強の甘い菓子グラブジャムンで名高いインドの隣国。あれはほんとうに甘かった。歯茎から歯がいっせいに躍り出て二度と帰らぬようなボリウッドなテンションだった。ならばツルピーも、とぼくは浅知恵で考えた。
直方体で、薄い黄色を帯びたそれは上面と底面に褐色の焼き色がついており、カステラさながらである。さつまいもに見えないこともない。キャラメルに似たサイズも想像上の甘味をいやましにした。
連勤明けでひどくくたびれた目を思わず見張るような、鮮烈な甘さを求めて今朝いそいそ開封したのであるが、果たしてツルピーはまったく甘くない。塩気があるのでも苦味があるのでもない。なんらかの動物の乳から作られたと店で聞いた。なるほど牛乳をあたためた湯気を想わせるほのかな柔らかさがある。チーズのように際立って乳臭くはない。ただ、日本的な舌の感性に出合って「ほんわかする」とか「ほのぼのとした」といった落ち着いた感想を喚び起こさないことは確かである。頬も眉間も緩まない。びょうびょうと風吹きまくる高山の道中で、よく日に焼けた高齢のネパール女性がロバとふと立ち止まり、これから赴く山々の稜線を遠く見はるかしながらぽいと口に含んでいそうだ。その頬にも眉間にも皺は深々と刻まれている。きっと彼女はぼくを振り返り、簡潔な言葉で道のりが高遠であることを教える。ロバが足元に薄く茂る草を食んで、ぶるると鼻を鳴らしている。少し歩みを止める時間ぐらいではちっとも変成しないツルピーはこのあとの旅のよき友であるだろう。彼女はまた歩き出す。ぼくは重いリュックを担いでその背を追う。

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ツルピーひとつぶを食べるあいだどれだけ文章が書けるものかと取り組んできたがいまだにしぶとくながらえている。書き出すまえは口内で転がしながら「さしておいしくないもの」として捉えており、ドリアンやパクチー、ニョッキといった、好きになれずにいる食品と関連させて描かれることになるものと見込んでいた。21世紀の日本人として育んできた従来のスイーツ観に固執するならそれも仕方ないかもしれない。しかしこれをスイーツだとして尊んで、150円の価値を付して売るひとがいることを考慮に入れて改めて噛んでみると存外、夢中になって食べられる。
佐藤雅彦はハンガリーのレストランで供された「赤ワインを発酵させたスープ」の味にはじめ強烈な抵抗を覚え、同行者とともに「食べられたもんじゃない」と憤慨したという。しかしそのうちの一人が「これをおいしいとする?」とおずおず提案し、果敢に口に運びつづけるのを見て、みなでその観点を共有して改めて食べ進めると、「先程より変ではない」「おいしいような不思議な味」「確実にうまい」と感慨が深まっていった。その経験から、佐藤は次のような発見を導き出す(佐藤 2009)。

自分が理解できないということは、自分の中にその価値を認める体系が無いということである、だから「このスープはおいしい」と仮に認め、改めてそのスープを飲むと逆にその価値観を含んでいる”ある体系”の存在に気づくことがあるのだ。

佐藤雅彦『毎月新聞』2009、pp.197-198

ツルピーをおいしいとし、スイーツに含める。すると普遍的だと思ってなんにでも敷衍してきたスイーツ観が揺れはじめる。日本語でいう甘味、英語でいうsweetsとは明らかに異なる食文化に出くわし、足元がおぼつかなくなる。あたためた牛乳から立ち昇る湯気のような朧な風味を数十分かけて味わうことも、仙台でインド・ネパール食品店を司る彼女にとってはスイーツなのだ。まして、彼女のルーツのある広大な故郷ネパールに住まうひとの多くにその「体系」が共有されているのかと考えると、気が遠くなるようだ。
氷山の一角に触れただけで文化人類学の御大、川田順造の文を引用をするのは気が引けるが、それはともかくアフリカのモシ族をフィールドワークした川田(1980)は、日本語の「歴史」という用語を、モシ族のことばで伝えようとするとき解体を迫られることを指摘している。それはモシのことばではたとえば「もののはじまり」(シングレ)であったり、「先祖の人たちの生きていた時代」(ヤーブランバ・ウェンデ)であったり、「生れて、見たもの」(父祖から代々伝えられる仕来りのこと。ローグンミキ)であったりする。日本語でいう「音楽」についても同様で、どんなもので音を発するか(叩くものや弾くものはウェン、こするものはワーグレ、吹くものはペーブなど)、そして聞き手に意味あるものとして受容されるかどうか(意味があればコエガ、雑音はブーレ)で用語を使い分けるモシのことばをまえに、「一般的で、体裁がいいようではあるが、何やら空疎なものにも思われてくる」と川田は述べる(川田順造・武満徹『音・ことば・人間』1980、pp.6-10)。
スイーツとはなんなのか、つまり、よくわからない。
インドやネパールが認めて送り出した刺客を口のなかで違和感とともに転がすうちに、「これをおいしいとする」体系に敏感になり、ひいてはじぶん自身の味覚を見つめ、あわよくば変革したいものだ。

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2500字書いてようやくツルピーを食べ終えた。2時間かかった。
噛んでいる間は、予想外に時間が延び、いつまでも朝食を摂れずに悶々としていたはずが、また別のひとつぶに手を伸ばそうとする誘惑を拒めずにいる。まさか佐藤雅彦や川田順造に言及することになろうとは、ツルピー侮れない。はるばる歩くときにまた口にしようかな。そのときはロバも従えて。

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I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)