失った青春と新しく得た青春 1東京編
私は高校で統合失調症を発症して現在39歳。来年は40歳です。
色々ありましたが今は、結婚して障がい者雇用で働いてます。
2年前に17年振りに統合失調症が再発して今日、療養期間が終わりリワークプログラムを始める事を訪問看護の方や担当医と決定しました。
暇すぎて東京オリンピックをずっと見ていたのを覚えています。療養期間を一言で表現すると寂しかったです。
妻はフルタイムの仕事でステップアップの転職に向けて英語や会計の勉強を家に帰ってもしています。それ以外はゲームをやっていましたかね。
我が家には団らんはなく子供もいないので、妻は帰宅して夕食後すぐ仮眠をとり風呂に入って自分の時間に入ります。
私は毎日何をしてこの膨大な暇を潰すか考えて過ごし、でも晩御飯を食べて風呂に入ると薬がきつすぎて9時10時になると脳が回転せず横になってました。
唯一、せめて外には出ないとと思い近所に常連の喫茶店を見つけ出しそこのママさんと色々な話をしていました。単調な生活でしたが抑うつや気象病の時はとても辛いでした。
今回のnoteは過去の私の追憶なのですが不快に思ったらブラウザバックして下さい。私の東京時代はかなり酷いです。では、自分語り始めます。
「あいつら何してるのかなぁ」と思う人たちがたくさんいます。これを書いてる今現在も。
小中高もありますがそれ以後の人たちです。
私は予備校に3回入りました。そして予備校に入るたびに過度に勉強して統合失調症を再発しました。
今回はその中でも2回目の東京の予備校時代の昔はなしをします。文書化して整理しておきたかったので。
1回目の予備校は地元の予備校でした。しかし薬を飲んでおり、とにかく眠たくて勉強になりませんでした。
私は高校を統合失調症で留年してるので20歳の時に地元の予備校にいたことになります。今から20年前くらいの話ですね。
私立の進学校だったため地元の高校時代の友達は各地の医学部や東京大学か早稲田に行って私は地元の友達が0人でした。
予備校も薬が辛く授業を受けるどころじゃなかったです。
今だからわかるのですが20歳の私は病院の早期治療が適切でこの頃ほば統合失調症の症状がありませんでした。
ただ、薬の副作用による倦怠感と眠気に悩まされていました。
次第に私は予備校に行かなくなりました。家にいても何もすることがなかったので予備校に行ってくると言って図書館のライブラリーコーナーにある過去の名作映画を見ていました。バックトゥザフューチャーやトップガンとか80年代のハリウッドですかね。
これじゃ早稲田どころか明治中央あたりもキツいかもなと失念してました。ゲームセンターに行き狂ったようにお金を使ってました。ある日、いつも通り図書館で映画を見終わり途中で振袖を着た人をたくさん見かけました。
その瞬間、あぁ今日は成人式なんだと理解しました。僕も二十歳だと。でも成人式など行けるわけがありません。いい高校に行って病気で留年していまだに予備校にいる。プライドがぐしゃぐしゃでした。
会いたいでした。お互い大きくなった旧友に。小学校の頃の友達に。でも合わせる顔がありませんでした。今考えると旧友に会えるのは成人式が最後のチャンスだったと思います。
でも僕は病気になったことにコンプレックスを持ちいい大学に入れなかったプライドで行きませんでした。
2月に受験を終え受かったのは早稲田の第一文学部だけでした。早稲田の一文は当時僕らの高校なら誰でも行けると有名でした、センターで9割をとり簡単な国語と英語の試験を受けるだけでしたから。まぁ東大に受からなかった人の受け皿みたいなもんでしたね。今は第一文学部と第二文学部が合併したと聞きましたが。
それでも東大に固執した僕は両親に東京の予備校でもう一度チャンスをくれとせがみました。両親はこの頃、私を病気にしてしまった負い目で私のいう事を何でも聞いてくれました。裕福な家庭だった私は何も疑問を抱かず東京の予備校に行き寮に住むことになりました。
そうとう私にお金を払ったはずです両親は。でも私は両親にお金を払わせる事が私の人生を奪った両親に唯一できる復讐だと思い何も考えませんでした。
東京の予備校に行き寮に入った私は初めは真面目に勉強し8月の段階で東大はA判定でした。偏差値も70以下はなく何度も受けた東大実戦などでも上位で大きなトラブルでもない限り受験は大丈夫な状態でした。
しかし、その代償として被害妄想や幻聴に苦しむようになり勉強どころじゃなくなりました。
そんな時に私は同じ寮で同じく進学校のカトーと出会いました。何が理由か忘れましたがカトーと寮の近くの喫茶店で意気投合して次第にカトーと一日中過ごすようになりました。予備校には行かずカトーと深夜になったら寮を抜け出しファミレスで時間を潰し朝までカラオケに行ったりビリヤードをしていました。そこでお酒やタバコやギャンブルに夜遊びを全て教えてもらいました。
全く勉強をしなくなりました。でもカトーといない時間は幻聴が酷く東京の医師に受験を辞めて入院を勧められていました。でもカトーといると不思議とワクワクして症状もなくなるのです。
カトーと過ごした日々の今さえよければいいという発想は若さ故の行動だった気がします。下北沢でカトーの連れと合コンをしたりナンパしたりパチンコに行ったり。
私は都会の誘惑に完全に飲まれました。そんな自堕落な生活をしていて増々症状が悪くなりセンター試験の前日、寮でぶっ倒れて病院に運ばれ親が東京までやってきて実家に戻されました。そして3回目の精神科病院に地元で入院しました。
東京は魅力的な街でした。当時まだリーマンショックもなく日本も元気がある頃でした。
私は精神科病棟の隔離室で東大の本試験を受けさせろと暴れてました。あんな自堕落な生活をして受かるわけもないのに。
隔離室を出ると父に東大は諦めろと病院で言われました。
私は小学生低学年から中学高校そして予備校と東大に受かる為に勉強してたのです。すべてを犠牲にしていました。その後なんてどうでもいいでした。
馬鹿のひとつ覚えで東大に執着し両親もそれを応援していました。
私は父に「僕の人生を返してくれ!慰謝料を払え!」と絶叫しました。
「お前の病気じゃ東大は受験も入学しても卒業しても再発するから諦めろ」と言われました。
何かが壊れました。
じゃあ何の為に生きてたの?
みんながアニメや漫画を見てるとき我慢して塾に行き勉強をして、中高男子校でスパルタで勉強しかせず。
これからの人生、何をどうしていいのかわからなくなりました。
それから私は抜け殻のようになり安定したと判断されて退院になりました。三か月ほどの入院だったでしょうか。
私は家で寝たきりになりました。ご飯を食べてテレビを見てそれ以外はずっと寝てました。
ある晩、酒を飲みながら限界が来てホームセンターで買った縄で自分の部屋で自死を図ったら縄をくくったタンスが倒れて下敷きになり救急車を呼ばれて精神科の隔離室に隔離されました。
別にどうでもいいでした。隔離室だろうが家だろうか生きようが死にようが。完全に投げやりでしたね。病院の大部屋で毛布にひたすらくるまってました。
ある日、これからの人生どうすればいいか苦悩して、私が高校時代から面識のある男性の看護師さんに相談したら今までの経験を活かして作業療法士になったらどうかと提案されました。
大卒を捨てて作業療法士の専門学校でも行こうかなと私も思いました。私と同じような病気の人をサポートできるのならいい生き方なんじゃないかなと。
父に作業療法士になりたいと打ち明けました。
父は最低限、大学を卒業しろと言ってきました。大卒を取れと。
心が折れました。
そのままやる気のない私は福岡の予備校に通い寮生活を再度しました。
私はもう勉強はしなくなりました。次回、2福岡編での生活を中心に書きます。お付き合いありがとうございました。
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