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『くるまの娘』で爆発しそうになった。

宇佐美りんさんの『くるまの娘』(河出書房新社)がすごかった。読んでいて爆発しそうになった。汗がだらっだら出てきて、ページを閉じたり開いたりしながら読み終えた。これはもう、なんか書いて整理しなきゃいけないなと思ったので、書いてみる。

壮大なネタバレを含むので、未読の方はそっ閉じしてください。



まず、自分なりに登場人物とストーリーをざっとまとめてみた。

登場人物

かんこ(かなこ)…主人公。17歳の女子高生。母の病気以降、不登校気味になり父親に虐待のような扱いを受ける。現在は母に送迎してもらい登校している。こどものような親を守りたいという気持ちがある。自殺未遂をしたことがありカウンセラーにかかるが、自分の言葉が形骸化しているように感じる。中学受験の際合格に泣く両親を見て守らねばと感じる。父と同じように勉強することで彼を理解しようとしたが、ついていけなくなり、初めて兄弟の苦しみを理解する。誰も傷ついてほしくないと思っている。相手の言葉を内面化しやすい。

…二年前に脳梗塞を患い、後遺症で左半身に麻痺が残る。発症前は気丈だったが病気以降一変し、泣き出すことが多くなる。前向性健忘の影響で過去の記憶へのこだわりが強まる。酔うと感情が不安定になる。元々他人の痛みにも共感しやすい性格だが、より些細なことにも苦しむようになった。

…大企業に勤める。怒ると手や足を出し、家族を罵る。教育熱心で、子どもたちを自らの指導で私立中に入れる。奔放だった母親(かんこの祖母)を許せず、家を出るために猛勉強する。かんこの不登校を本人の怠けや甘えだと思っている。勝手に中退し家を出た兄に怒っている。

兄(あきら)…家族に嫌気がさし、大学を中退して家を出る。職場の同僚と結婚し現在は栃木に住む。家族からの電話に出ない。かんこに自立を促す。

弟(ぽん)…高校入学後、母親の実家に住む。冷静で、誰か1人を責めることがない。かんこに変声期の声をなじられ、一時期うまく喋れなくなる。皮肉屋でへらへらと笑う(ことで自分を守っている)。

ストーリー

かんこは祖母の葬儀のため、両親と共に父の実家(片品村)へと向かう。昔を懐かしむ母の提案で一行は車中泊をするが、些細なことで不穏になる母、反抗して不機嫌になる父、彼らと距離をとりたがる兄など、家族の不安定な形が明るみに出はじめる。
親戚との関わりの中で家族は一時安定状態になるが、葬儀が終わり帰る道中、母が遊園地に行きたいと言い出したことをきっかけに、再び緊張状態が高まる。弟のいじめを自己責任だと責めた父を許せず、かんこは運転席を蹴り上げる。父は怒り、かんこに暴力をふるう。その夜、母が心中を図るも父によって丸め込まれてしまう。
一家は遊園地に到着するが、母は思い出のメリーゴーランドが休止日であることを知り泣き崩れる。せめて写真だけでも撮りたいと叫ぶ母に促され、かんこはメリーゴーランドに乗り込む。しかし兄と弟はその場から離れていった。
それから半年間、かんこは車の中で暮らすようになる。車の中にいる限り、父も母も強く干渉することはできなかった。かんこは次第に学校に通えるようになった。
ある日、実家の遺品整理から帰ってきた父がかんこを連れ出す。父は、兄弟中で自分のアルバムだけが無かったことを知り、自らの人生に愕然とする。かんこは父がアクセルを踏み心中を図る想像をするが、父はアクセルを踏まなかった。

アダルトチルドレンの物語

これは機能不全家庭の物語だ。普段は平和に見えるが、ひとたび緊張度が高まるとあらゆるコミュニケーションが怒りと悲しみに塗りつぶされてしまい、誰かが傷つけ、誰かが傷つけられる。そして時間が経つと無かったことのように処理されてしまう。
主人公のかんこは、そこに違和感を抱いている。

親子の役割が逆転してしまっていることが、特に不健全だなと思う。(病気の影響ではあるが)子どものように泣いてわがままを言う母、子どものように怒りに囚われてしまう父。兄弟は親から距離をとったが、かんこは守らなければならないと感じている。

あの人たちはわたしの、親であり子どもなのだ。

宇佐美りん『くるまの娘』河出書房新社 2022年5月30日初版 P123


この両親は「アダルトチルドレン」ということになるのではないかと思う。アダルトチルドレンとは1970年代のアメリカで生まれた概念で、元々は「アルコール依存症の親の元で育った子どもは、将来アルコール依存になりやすい」という現象を示す言葉だ。それがもう少し幅広く捉えられて「機能不全家庭で育ったことが原因で、大人になってもトラウマを持つ。自らも機能不全家庭を築いてしまう」といった現象も含められ流ようになった。
この概念は1990年代の日本でもブームになったらしく、今でも細々と関連本は出版されているようだ。
(「アダルトチルドレン」は当事者が自己理解を促進するための概念であり、医学的な診断名ではない)


この「機能不全家庭の再生産」というのは、物語の後半で父親の過去が明かになることで、より強調されている。小説にはこう書かれている。

天からの火が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれ続けるのだ。

『くるまの娘』 P140


しかし、改めてそんな概念を持ち出さずとも、かんこは両親の傷に気付いている。物語を通して、かんこは異常なほど冷静さを保って家族を観察している。まるでカウンセラーのように、人の心理状態を俯瞰的に見ている。それも彼女が家族から離れられない要因の一つだろう。


物語の問いかけ

この物語の核心的な問いは、次の箇所だろう。

もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった

『くるまの娘』 P124


人生相談なんかを見ていると、しばしば「人間関係のお悩み」が投稿されている。そういった悩みへの回答は、「距離を取りなさい」だったり「離婚しなさい」だったりする。果たしてそれでいいのか? この物語はそう問うているのだ。かんこは、できることならば家族全員で救われたいと思っている。
(余談だが、自分が読んだなかで特にハッキリと「親を捨てなさい」と書いていたのは、寺山修司だ

すごく難しい問題だ。端的に言えば、「家族ってそんな簡単に捨てられますか?」という話である。自分がどちらかの立場に立ったとき、どういうふうに考えるだろうか。

自立推進派

  • たとえ家族であっても、自分が傷ついてしまうのであれば距離を取るべき(かんこは虐待ともいえる暴力を受け、自殺未遂に至っている)

  • 一度距離を取らないと、冷静に物事を見られない

  • 時間が経てば、自分を守りつつ親と向き合える時が来るかもしれない


自立反対派

  • 家族なんだからそう簡単に捨てられない(火事場に子どもを残せるか?)

  • 結果的にうまく自立できた人間だから「自立しろ」と言えるのだ

小説では兄や弟が前者、かんこが後者の立場として描かれている。自立派の立場がどちらも男性であることは、家庭の中で女性にばかり役割が求められる(ゆえに家庭を捨てがたい)ことと無関係であるとは思えない。
作者はインタビューで「そのどちらの考え方も選択も、絶対的に正しいものとして描きたくなかった」と述べており、あくまで自立だけが全てはないと伝えたかったのだろう。


かんこ自身も、家族から離れようとする肉体と家族を守りたいという感情の板挟みになり、結果的に「くるまの娘」になってしまったのだと思う。



爆発しそうな緊張感

ここまで物語の構造について考えてきたが、次は自分のことについて考えてみたいと思う。つまり「どうしてこの作品を読んで爆発しそうになったのか」ということだ。読みながらめちゃくちゃ内省を促されたし、これは自分にとって避けては通れない問題だと直感する。

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昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま