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第三回『暇と退屈の倫理学』読書会の記録

前々回、前回に引き続き『暇と退屈の倫理学』の読書会を開催した。今回も様々な意見や脇道に逸れた面白い議論が展開されたので、ご紹介していきたい。

前回の記録

読書会詳細

『暇と退屈の倫理学』読書会 第三回
開催日:2022年9月3日 18時〜20時
会場:ニネンノハコ(津市大門9-7)
全四回開催予定。第三回は「第五章」から「第六章」までを取り上げた。

読書会の目的

  • 本を読み切ること

  • 暇とどう向き合うかを各々考える


※発言前のアルファベットはあくまで発言者の区別のための記号であり、実際のお名前や前回参加者の区分とは関係ありません。
※ハイデッガーやユクスキュルの引用が数箇所出てきますが、解釈が正確でない可能性があります(予防線)
解釈おかしいやろという点につきましては、ぜひご指摘ください。


第五章:暇と退屈の哲学

ハイデッガーは退屈について真剣に考えた哲学者である。彼は退屈を3つの形式に分類し、その原因を「自由」によるものとした。また、退屈に対処する方法として「決断すること」を提唱した。

主催者要約
「退屈の三形式」
ただしこれらは並列的な関係ではない(「深さ」という線でつながっている)


・第一形式より第二形式が深いというけど、実際どう深いの?
→ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』(Die Grundbegriffe der Metaphysik:
以下GM)で、7つの観点を挙げている。大雑把にいうと、第一形式の退屈は外的で、第二形式はより内的である……ということだと思うけど、よくわからん。

Ⅰ 特定の周辺地域から退屈がいわば外的に到着、到来する。
Ⅱ 当該状況がきっかけになって退屈が現有の中で、また現有から立ち昇る。

川原英峰、セヴェリン・ミュラー訳
『形而上学の根本諸概念・ハイデッガー全集 第29/30巻』創文社 P218


・第二形式の例の退屈は、パーティーで退屈したのじゃなくて、振り返っている今退屈してるのでは?
→いちおうハイデガー自身が否定している。
→B:割と無理やりな気はする。ハイデガーも突っ込みたいところが多い

この錯覚は、一晩を無駄なことに当てて空費してしまったことについての、後になってからの不機嫌から生じたのだろうか? いや、そうではない。われわれが、たいへん楽しかったのだけれど、それでも退屈した、ということは全く明白なのである。

同上  P183


C:育休から復帰するときに、「退屈の第一形式」のような状態だった。自分の生産性の無さを感じてしまい、前倒しで復帰させてもらった
→B:多少の「狂気」があったということに(笑)
→A:暇倫にも親子の例があったような

退屈の第一形式における引きとめとは、このガミガミうるさい親と同じだ。親がいなくなれば監視は終わる。(中略)それに対し、好きなことをさせつつもじっと眺めている親からは、子どもは強い圧力を感じるだろう。たしかに自分は放任されている。しかし、自分はけっして放免されることがない。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版 P237


A:育休を早く切り上げたっていう話を他の誰かにも聞いた。みんな狂気に……
C:「自分は価値がない」みたいな
B:そんなことないのに、自分では思っちゃう
C:食べさせてもらってるみたいな負債感というか……。入っている育休コミュニティでも「育休を無駄にしない」みたいな有意義さにみんな熱狂していて、最近ちょっと距離を感じてきた。もしかしたら暇倫を読んだからかも(笑)
A:「育休を無駄にしない」っていう人たちはどういうことをされて?
C:やったことないことに挑戦するとか
B:長期休暇の間に何かやる……みたいな
C:副業して社会の役に立とう! とか
D:それ育休じゃないじゃんと思っちゃう
B:休んでないじゃん
A:完全にパスカルの「部屋にじっとしていられない」というやつ
B:そんな働かなくてもいいのにと思うけど。でも自分も転職活動のとき、手当期間ができたことを喜んだはずなのに、一ヶ月ぐらいですぐに「働かないといけないんじゃ」と思って手当を止めたりした時期があって。育休のお母さんもちゃんと休んでいる(真っ当な権利)のにそう思うんだなって

※こういった、何でもかんでもコストパフォーマンスや生産性で測ろうとしてしまう状態のことを、『居るのはつらいよ』という本では「会計の声」と説明している。もちろんあらゆる「それでいいのか?」という自省が会計の声から出ているとは言えないだろうが、実際この価値観の影響はとても大きい。

会計の声は、予算が適切に執行されているのか、そしてその予算のつけ方そのものが合理的であったのかを監査する。コストパフォーマンスの評価を行い、得られたベネフィットを測定し、そのプロジェクトに価値があったのかどうかを経営的に判断する。
そのような会計の声を前にして、「ただ、いる、だけ」はつらい。

東畑開人
『居るのはつらいよ——ケアとセラピーについての覚書』医学書院 P317


E:会計は全てではないけれど、物事を加速させる気がする。例えば、うまくできないことを怒られることで、「怒られるからちゃんとやらないと」と余計に焦ってしまう。怒られた経験が少なければそこまで慌てないと思う。性格にも反映してきて、個人差が出てきたり
→B:「早くしなさい」と言われて育った子はせっかちになるし
→E:「怒られる」と「ごめんなさい」を繰り返して、エンドレスに
→A:あー、すっごいハマってしまう
→E:もしそこがあまり反応されない環境であれば、必要以上に繰り返すこともなかったかと

・ハイデガーの結論は果たして「決断せよ」なのか?
→GMの最後じゃなくて、途中ぐらいに一瞬出てくる

現有が自分を自由にするというこのことが生起するのは、そのつどただ、現有が自分自身へと向けて(zu)自己封鎖解除即決断する(sich entschließen)ときだけ、すなわち、現有が現-有としての自分のために(für)自分を開く(sich erschließen)ときだけである。

『形而上学の根本諸概念・ハイデッガー全集 第29/30巻』 P249



・ハイデガーの問いは最終的に「存在とは何か?」みたいなところにあるので、『存在と時間』を読まないと分からないんじゃないか。
→B:自分の才能で人間社会の役にたて! みたいなことかな。情熱じゃん

ハイデッガーは、人間のみが存在の意味を了解し、現実にそこに存在するという意味で、《現存在》(ダーザイン)と呼ぶ。(中略)現存在は人間としての本来的存在であり、「死へとかかわる存在」である。自己の存在の有限性を自覚した時、世界内存在としての事物的存在者や他の現存性への気遣い(関心)において、世界の中に自己を投企するという本来の自己(実存)にめざめる。

『新訂第2版 倫理資料集』清水書院 P230

※これもやっぱり疎外から出てくる「本来性」なんじゃないか? と思う。その辺を含めて國分先生は批判しているのかも。



・GMでは、決断とは瞬間だみたいなことを言っている。それを好意的に理解すれば、「人生というめっちゃ大きな視点で考えるんじゃなくて、今この瞬間を生きろ」みたいに解釈できる?

この「なんとなく退屈だ」において顕わになる時呪縛は、ただ時によってのみ突き破られうる。時呪縛が突き破られた場合にのみ、全体における有るものはもはや言うことを聴かないなどということをしなくなる(中略)時の独自の本質に属し、われわれがキルケゴールに依拠して瞬間と呼ぶところのもの、このものによってのみ突き破られうるのである。

『形而上学の根本諸概念・ハイデッガー全集 第29/30巻』 P252

※ただしここに関しては『存在と時間』第65節を理解しないと分かんないよ、ともハイデガーは書いている。



・「第一形式の退屈」は、スマホの普及した現代では減っているのでは?
→B:「スマホを触ること」は気晴らしだと思う
→退屈を自覚することが減っているのかもしれない。なんとなくそれが第二形式に近いような気がする。第一形式的な「退屈から逃れようと必死に仕事を探す」という行為はぼんやりネットサーフィングに淘汰されるのでは?

・第三形式は「動けない日」だと思う
→寝ながらぼんやりして、思考だけぐるぐる回ってるけど、「あれも別にやりたいわけじゃない」「これも別に……」みたいな

B:ハイデガーは「退屈」や「不安」を起点に考えているけれど、例えば「仕事している状態」とか「動いている状態」をベースに考えると、その間にあるのが「退屈」ということになると思う。どっちに目を向けるかで変わってくるけれど、「退屈」に先に目を向けたらこういうふうに考えられるのも分からなくはない。自分にはちょっと当てはめにくいと思う部分はある

・ハイデガー、独自概念が多すぎて分かりにくい気がする
→A:空虚放置とかすごい厨二感
→B:翻訳の加減もありそう
→そもそもこの本(GM)自体が、講義ノートの本文に、周囲の大量のメモ書きを放り込んで編纂されているらしい
→B:ひょっとするとハイデガーの意図を離れている部分もあるかも?

第六章:暇と退屈の人間学

ユクスキュルは、あらゆる動物は相対的な時空間に生きているという環世界論を提唱した。ハイデッガーはこれを踏まえつつも、人間は世界そのものを受け取れるので環世界にとらわれていないと考えた。この論理は人間の能力を絶対的なものとして特別視している点で問題がある。だが、人間は動物に比べ相対的に高い「環世界間移動能力」を持つゆえに、退屈すると言えるだろう。

主催者要約
〈とりさらわれ〉と〈とらわれ〉の関係


C:遊動生活していた時も、退屈はあったんじゃないか? と思う。
ダニは信号で動いているから、それ以外の生き方はできない。酪酸じゃなくて視覚で動けるならば、もっと繁殖できるかもしれないし。人間に退屈があるということは、生き方を選べるということで、いろんな進化の方向性が与えられているということじゃないかと。退屈は与えられた「ギフト」なのではないか
→B:人間は思考するから退屈になるんじゃないか。先のことを考えて「この後時間が空くな」と考えると退屈を覚えたり、「今やっていることは生産性が低い」と考えて退屈を覚える。もし仮にそれが信号で動いているだけならば、「退屈」という解釈にはならない
予想できたり、今の自分は満足しているか? と考えるから退屈という概念が出てくると思うと、「自由がある」というのはわかる気がする

・犬から人への「環世界移動」と人から人への移動を比較するのはちょっと不公平なんじゃ?
→B:それは思う

・動物と人間の違いは「意志とは何か」という問題でもあるか?

・暇倫ではダーウィンの「ミミズの知性」が環世界間移動みたいな文脈で書かれているけれど、ユクスキュルの『生物から見た世界』ではミミズの行動は味覚によるものと書かれていて、それは別に環世界間移動じゃない(元々備わってる機能)のでは?

ミミズは葉を形に応じてあつかうが、それは葉の形に従っているのではなく味に従っているのである。明らかに、ミミズの知覚器官の造りは形の知覚標識を形成するにはあまりに単純すぎるので、このような調整がおこったのだろう。

ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳
『生物から見た世界』岩波書店 P75



・ユクスキュルは人間と動物の違いを「環世界の豊かさ」で説明しているのでは?
→人間は「実行できる行為」が多い+体験を積み重ねられるので、環世界において識別できる対象が多い。これは知覚器官の発達度合いの違いでは?
→B:環世界間移動能力は結構疑問
→本当に「環世界」から出ることはできるのか?
→A:それ(移動した先の世界)も含めて元からあった環世界では
→B:仮に移動能力があったとして、盲導犬→人の環世界移動と比べるならば、「人→犬」の移動は可能か? という部分と比べなければならないのでは?
人間が犬みたいに色々嗅ぎ分けて、犬の障害を避けてくださいねって言われてもなかなかできないし
人が勉強してある職種に就いた、というのは環世界の移動かというとちょっと違う気がする

ある動物の行為の数が増すとともに、その環世界に存在する対象物の数も増える。その数は体験を積み重ねることのできる動物では、各個体が生きていく過程で増加していく。(中略)これはとりわけイヌで観察することができる。イヌはある種の人間の日用品の扱いかたをおぼえるが、その場合イヌは人間の日用品をイヌの日用品にしているからである。
とはいえ、イヌの対象物の数はわれわれ人間の対象物の数より格段に少ない。

同上 P96

暇倫の環世界間移動能力に対する批判が端的にまとまっている記事



・そもそも「環世界」という概念がかなり抽象的で、人によって捉え方が結構分かれそうな
→B:環世界を「この世界」って言い換えると、「この世界からあの世界に移動する」んじゃなくて、「あの世界も含んでいるのがこの世界でしょ」みたいな
→「人間がダニの環世界を体験するのは極めて困難」というが、器官的に無理では? 酪酸に反応できないし
→B:まあゼロではないということで、そう書いたのかもしれない
→A:人間の例で書かれているのは「認知」の話になってくるし、別生物間での環世界移動は「人間が(その生物について)知っているだけの能力」のことしか言ってないから……混乱してきた
それぞれの生物の身体的機能による世界の認知の仕方がそもそも違うから、寄せることはできても、移動するのは無理では
→C:魚の中でもエリートの魚とダメな魚がいるみたいな
→人間の環世界移動を言うなら、同じ動物間での移動と比較しなきゃいけないのでは
→B:「ものすごいメスにモテる鳥」とか

・例えば草花の名前を覚えたら、それまで意識してなかったものが識別できるようになる。それは「環世界が豊かになる」と言えるのかも。でも、そうやって環世界を拡充できるから一つのところにとどまれず退屈することになる……?
→B:識別できるようにはなるけど、その花の考えていることが分かるようになるわけじゃない。「この柴犬かわいいな」とは思えても、「芝犬にとって美味しい味」とか「気持ち」が完全に理解できるようになるわけじゃない。予想はできても、その動物が感じるそのままを感じることはできない
→D:限界があって、入り込めない
→A:「寄せに行くこと」は人間だからできるのかな? 反論の反論だけど
→B:でもそれ言ったら動物も寄せにいくことはできるし
→A:例えば、花は人間の環世界を想像することは恐らくできない。でも人間は花の環世界を(究極的には分からないけれど)想像することはできるんじゃないか。つまり人間の方が環世界移動というか、他の生物の環世界を想像する能力は高いと言える……?
→B:確かに思考や想像によって寄せる能力は人間のほうができるかもしれないけど、花や植物も人間が育てれば綺麗になったり繁殖したりするかもしれない。そういうふうな変化であれば、(花が人間の)環世界に寄せているのでは?
→E:動物とかも野生動物と家畜で違う気がする。野生動物は退屈を感じるような余裕はないだろうけれど、飼い犬は退屈を感じてる気がする。育てられた花や植物はいわば「飼われてる」ようなものだから退屈しそうだし、豚や牛は絶対退屈してそう
→A:それぞれの生物に定住革命が起こっている……。やはり定住革命が起こると退屈が
→C:なるほど
→E:そしてストレスをなるべくかけないように平飼いしたり、飼い犬もなるべく退屈させないように遊ばしたり
→D:ちょっと違うかもしれないけど、家畜に音楽聞かせたりとか
→E:退屈させないようにして、最後食べる
→A:辛い……

・「環世界間移動能力」っていうとややこしいけど、要は集中力では?
→B;認知能力で説明してもらったほうがわかりやすい気がする

・環世界に関して、暇倫では触れられていない「作用トーン」という話がある。例えば同じベッドでも、眠たい人にとっては眠る場所、足腰の疲れた人にとっては座る場所、どちらでもない人にとってはただの家具(あるいは認識から外れている)。つまりその人の気分によってものの価値は変わってくる。そういう部分も「環世界間移動」のなかに入ってくるのではないか
→A:多分ライオンも腹一杯の時は獲物を追いかけないし

D:環世界移動でちょっと思ったのは、例えばノミのジャンプ力を人間で例えればビル10階分とかになる。人間がそこまでいけるのか? という話を考えてしまった。仮にそれが「環世界間移動」なら絶対無理だなと思った
→A:体が小さくて足の筋肉が発達しているという「物理的条件」が認知にもおそらく影響を及ぼしているということ。それを「環世界間移動の限界」とするならば、とても大きいと思う。人間は飛んでいる動物に比べればZ軸的な立体の捉え方が弱いかもしれない。
→ 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本では、目という知覚器官が使えない人は、世界をどう知覚するのかということが描かれている。例えば、見える人は月を「丸」と捉えるが、見えない人は「球」と捉えるとか
→D:触って物を確認するわけだから、3Dで捉えるんだ
→それは見える人が目を瞑って視覚をマイナスするというのとは根本的に違うという
→D:となると、目が見える人は見えない人の環世界に移動できない。想像はできるけど
→そもそも「環世界」という概念が、知覚と作用によって成り立つ世界のことで、そう考えると、知覚器官が違う生物の環世界に移動するというのは難しい
→B:その人のことはその人しかわからないでしょ? というのと同じで、この虫のことはこの虫にしかわからない。寄せることはできてもそのものにはなれない

見える人にとって、富士山とはまず持って「八の字の末広がり」です。つまり「上が欠けた円すい形」ではなく「上が欠けた三角形」としてイメージしている。平面的なのです。月のような天体についても同様です。見えない人にとって月とはボールのような球体です。では、見える人はどうでしょう。「まんまる」で「盆のような」月、つまり厚みのない円形をイメージするのではないでしょうか。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社 P65



・要するにこの章は、ハイデガーが「環世界論」を批判してるから、その理論を使って反論してる、ということだと思う

B:ハイデガーの言いたいことはなんとなく、ニュアンス的にしかわからないけれど、賛成はできない

・結局ハイデガーの言いたいことは「哲学しろ」ということ?
→B:自分の存在肯定に向かっている感じはする
→A:全集102巻を読めばハイデガーのことがわかるかも(笑)
→B:実際に会って話しても互いに理解できないこともあるんだし、102巻読んだところでわかるとも限らない
→A:自分達はハイデガーに何かを伝えることはもう不可能だし、自分達がハイデガーから何かを受け取って、後世の人に問うしかない
→D:そうなると、もう國分さんのやってることだよね。「ハイデガーはこう言ってると思う」と
→B:「自分はハイデガーをこう解釈した上で考えます」という
→D:一旦受け入れて、それを解釈してこうだと思う、と伝えてる感じ

A:退屈は絶対にあるもので、第四形式があったとしても退屈がなくなるわけではないということ
→人間の存在自体から生まれてくるみたいな
→A:だから退屈がなくなることを期待して『暇と退屈の倫理学』を読むと期待はずれだから、結論はそこじゃないということ。そこで恐らく肩透かし感があるんだと思う。そういう自己啓発の本ではない。その中で、あえて選ぶならば「第二形式」ということなのかなと
第一形式は奴隷状態、第三形式はもはや何もできない。それに比べれば第二形式がましということなのかなと
→そもそも國分先生の専門的にスピノザとかドゥルーズとかの結論が出てくるのは当然で、そういう方向性に持っていくためにこういう議論を展開しているというのがある。ただ納得できない人ももちろんいるということ

B:暇倫は講義録として素晴らしいと思う。納得できず考えさせられるということは、より引き込まれているということだし
→後書きにも「第二形式」にめっちゃ共感できる生徒もいればそうじゃない生徒も……みたいな話があったし

・そもそも第五章、六章は結論を出すための通過点みたいな感じで、ここだけではちょっと深い話が難しい
→A:ここまでは章ごとに取り上げるものがあったけれど、第五章あたりからアクセルをグッと踏み込んでるみたいな感じがする

感想

  • 環世界は文句つけ始めると止めどなくなるので、ヒートアップする良い議論だと思った。暇倫は元々講義がベースらしくて、初めから終わりまでの流れに勢いがあって良い本だと思う。國分先生のアツさが込められている。最初の方は納得できても、だんだん「あれ?」と思う部分が増えてくるのが五〜六章あたりで、難しいけど面白い。第三形式の退屈についての記述を初めて読んだときに感動した。

  • 読んでいて色々ツッコミどころがあって、ゼミに出てる感覚。

  • 自分はあまり退屈しないと思っていて、「第三形式」はほぼない。あるとしたら「第一形式」な感じだけれど、それもそんなにたくさんはない。それが幸せなのだろうか? 見えてる世界が動物によって違うという話から、ジャニーズJr.のファンは動体視力がめっちゃいいという話を思い出した。

  • 自分は10日間ずっと家を出なくても生きていられる。「何かしなければ!」という感じにはあまりならない。


次回の予定
第四回「暇と退屈の倫理学」読書会(最終回)
開催日:2022年10月16日 18時〜20時30分
会場:ニネンノハコ(津市大門9-7)
範囲:第七章〜付録

復習した上で、「退屈についての考え」をまとめてきてください。


配布資料・主催者の感想など

ここからは今回の読書会の総括と、読書会をまとめて感じた私個人の意見を書いてみようと思う。また、参考までに当日配布したまとめ資料のPDFデータも添付した。内容を箇条書きしただけの簡易なものだが、振り返りなどにご活用頂ければありがたい。

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この記事が参加している募集

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま