【掌編小説】深夜のサウナ、ゲイの友人と
真夏に停電が起こり、エアコンが止まり室内がサウナのようになって地獄だったという話はよくあるが、サウナに入っている時に停電が起こるケースはなかなか珍しいのではないか。私はまさにそのケースを経験したのであった。しかも、その時、困ったことに私に特別な気持ちを抱いていると思われるゲイの友人と二人きりだった。
ゲイの友人は酒井ノボルという名前の元ラガーマンで、同じジムに通う筋トレ仲間だった。酒井は身長179センチ、85キロで、私より6センチ、10キロ大きい。彼の腹筋はシックスパックが薄っすらと見え、大胸筋は見事に板のように発達していて、彼がジムの風呂でその裸体を披露すれば、誰もが一度は視線が止まり、感嘆の声を漏らした。翻って、私は3年近くジムに通い、十分な筋量はあるとはいえ、どうしても彼の横にいるとみすぼらしく見えてしまう。だからといって私は引け目を感じることはなかった。基本的に熱心な筋トレ愛好家(トレーニー)ほど、筋肉が大きければ大きいほどリスペクトの対象になった。そこに至るまでの努力の総量が顕在化しているのが筋肉であり、どんな人間であろうが、そこには絶対の真実があるからだ(おクスリは除いて)。
彼の右ふくらはぎには縦線で15センチほどの傷跡が褐色の肌に白く残っている。ある日、彼はそれを指さして言った。
「俺はこれのせいで大好きなラグビーをやめたんだ」
彼は私に微笑みかけ、勲章のようにそれを見せた。そのメスの入った傷のせいで今もカーフ(ふくらはぎ)のトレーニングができない。そのため、他の部位に比べふくらはぎは貧弱に見えた。ラグビーW杯が日本で開催された時、サウナ室のテレビで試合が映し出されていると、彼は目を輝かせて男たちの攻防を見つめていた。私はその少年のような横顔をみて、彼がいかに幸福な青春を送ったかを想像できた。美術部だった私はそんな彼を少しうらやましく感じた。その時、私はそろそろサウナを出て水風呂に入りたかったが、彼があまりにも熱心にテレビを見ているので、なんとなく付き合いたい気持ちがあり、我慢していた。
「さぁ、いこうか」
試合は続いていたが、酒井はそう私に言い、すっと立ち上がり出口にむかった。私にはその言葉は何かを断ち切るような、すがすがしいスポーツマンらしい敗戦を認める言葉のように聞こえた。彼は軽くシャワーを浴びた後、海に飛び込む白熊のように水風呂に潜り込んだ。私は彼が何秒耐えられるか数えた。ここの水風呂は水深が深く、水温も14℃と低めで、我々はいつもそれを褒めたたえていた。大人が数人入ってもぬるくならないのが良い。水風呂は何も考えたくないほど冷たいのが至高なのだ。特に酒井のようにラグビーに対する未練を断ち切りたい人間には。1分30秒が経った。彼はまだ水に潜り続けている。私は水風呂のふちに腰掛けながら数え続ける。水面には彼の裸の影がゆらゆらと揺れている。きっとまだ時間が必要なのだ。右ふくらはぎの傷跡のようになかなか消えないのかもしれない。彼の頭が水面から飛び出ると私は2分24秒と伝えた。
「ちくしょう。現役の頃は3分は行けてたのになぁ」
仲良くなったきっかけは、私が初めてベンチプレスで100キロの大台を達成した時だった。顔を上げると彼が近くで微笑んで、親指を立て、おめでとうと声を掛けてくれた。私は驚きと、気恥ずかしさと、嬉しさで、ぎこちなく会釈をするだけだったが、その後も彼とジムで会うたびに挨拶を交わすようになった。それから私たちは自然とトレーニングのメニューや技術的な話をするようになり、そして同い年な事も知った。知り合って数か月たった、ある秋の日に、彼は自分がゲイであることを打ち明けた。
「冗談じゃないぜ。本当の事なんだ」
「そうなんだ。たぶん、そんな気がしてたけどね…」
次の日、私はどんな用事が入ろうがすべて断るつもりでジムに行くことを決心していた。ジムに行くと、フリーウェイトゾーンに彼がいた。私は近づいて挨拶をした。
「やあ」
「もう二度とこないかと思ったよ」
「今日、ベンチプレスで自己ベストを更新するつもりなんだけど、補助に入ってくれないか?」
私がこう言うと彼はニコッと笑った。限界の重量にチャレンジする時に、ケガ防止と挙上に集中するためには補助する人間がいると良いとされるのだが、それに適した者は信頼できる人間じゃないといけない。私は遠回しに変わらない友情を表明したかった。彼もすぐにそれを理解してくれた。私と彼の関係はジム内で完結していた。どこか外で遊ぼうとか食事をしようとかそういう話は両方から一切出なかった。一種の戦友のような気持ちをお互い持っているかもしれない。彼がなぜ私に声を掛けたか話してくれたことがあった。
「今泉(私の事)はいつも追い込んでいて、あいつやるなと思っていた」
追い込むとは限界まで筋肉を疲労させることを言う。そうすることで筋肥大の効果が最大限発揮されると一般的に信じられているトレーニング理論である。彼は私のトレーニングに対する姿勢に感動したと話した。学生時代に運動部の経験がない私には、その言葉は深く刺さった。特に、素晴らしい肉体を持つ元ラガーマンに言われるのはなおの事だった。私はそれから、さらに拍車をかけてトレーニングに勤しんだ。そんな私を見て、彼の態度が微妙に変化しだした。最初、それは私のトレーニングへのさらなる熱中的な献身が彼に新たな感銘を与えたかもと考えていたが、どうも違うようだった。今まで自然に行われていた会話に時折、ぎこちなさや、ズレ、変な間が生まれることがあった。私はもしや…と思った。私がスミスマシンでスクワットをしていると、彼のぎらついた視線を背中と尻に感じることがあった。彼はどうやら私を恋愛対象にしてしまったらしい…。私は困った。停電事件が起こったのはそれから数日後のことだった。
私が通うジムは、24時間の総合スポーツクラブの一施設であり、清掃時間を除けば深夜にもプールやお風呂、サウナを利用できた。その日、私と酒井はスケジュールの都合で夜遅い時間にトレーニングすることになった。大雨も降っていたこともあり、館内は閑散としていた。私たちはいつもより設備を自由に使えて、思う存分に肉体をいじめ抜くことが出来た。疲れ果て時計を見ると、3時間以上経っており0時になっていた、私たちは風呂とサウナに入る事にした。深夜2時になると清掃が入り使えなくなる。一時間以上はゆっくりできると見積もった。体を洗い、風呂に入って体を温める。全身の筋肉がほぐれていく。私たちはベンチで少し体を冷まして、それからサウナに入った。サウナ室には私たち以外に誰もいなかった。私と酒井は隣り合って座り、黙って熱気に身をゆだねていた。数分経ったその時だった。突然、明かりが消え、テレビが消え、サウナの機械もその唸りを止めた。暗闇の中、非常灯だけがぼんやりと辺りを照らしていた。私はすぐに復旧するだろうと考えていた。だが、待てどもその兆しはなかった。こういう大規模施設なら自動的に非常用電源に切り替わるはずなのに…。私は徐々に下がる室温と静まり返るサウナ室で、自分が別の危機にさらされている事に気付いてしまった。
(これはまずいぞ…)
私は突然現れたこの危機に、体が硬直した。暗闇の中、二人とも隣り合って座ったまま、一言も言葉を発しない。ただならぬ緊張感に体は1ミリも動かず金縛りにあったようだ。私がなぜ動かないでいるかというと、それがトリガーになってしまうのを怖れた。もし、今自分が顔を酒井に向けたとしたら、ぎらついた彼の目にぶつかるかもしれない。あるいは合意のサインを送ったと勘違いされ襲われるかもしれない…。様々な想像が頭の中で駆け巡った。どちらにせよ、今自分が可憐な乙女のような状態になっている。そしてこうも考える。もし、彼が何らかのアクションを起こし、私が拒んだ場合、友情に亀裂が入ることになってしまう。それもどうしても避けたかった。結局、私は口をつぐみ、体を硬直させ、自分の膝あたりを見続けるしかできないでいる。酒井が何を今考えているのか想像するのは恐ろしかった。ただただ身を固くし復旧を待った。永遠に思えた時間も必ず終わりを迎える。
明かりが点くと、従業員が駆けてきてサウナ室にいる私たちを見つけた。彼はドアを開けて言った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
と私は二重の意味で言った。
私の横を、酒井はすり抜けていき、シャワーを浴びずにそのまま水風呂に飛び込んだ。私は秒数を数えなかった。たぶん、今までのベストの記録を破るアンタッチャブルレコードを出すかもしれない。彼は今もきっと水の中で戦っている。そして、勝つだろうことを私は知っている。彼もまた、あの暗闇の中で私と同じように様々な想像と格闘していたのだ。
それから1年後、酒井に恋人ができた。もちろん男だ。酒井は新しい恋人を私に紹介した。ほっそりとしていて中性的な雰囲気を持った優しそうな男だった。その日、ロッカールームで酒井と二人きりになるとあの停電の日のことを大胆に聞いてみた。
「あの時、俺のこと襲おうと思っていた?」
彼は少し間をおいて言った。
「ごめん」
私は微笑んだ。正直に言ってくれたことが嬉しかった。そして優しく言った。
「仕方がない事なんだよ。」
彼は驚いた表情を見せた。
「例えば、男女が密室で二人きりになれば同じことになるだろ?それが、たまたま男同士だけってだけで、よくあることさ。それにいい経験だったよ。か弱い女の気持を味わえた」
私がそう言うと、酒井は声を出して笑った。
「世の中の人間が今泉みたいな人ばかりだったら良かったのになぁ」