#128【介護雑記】しくじり先生、オレみたいになるな。
2022年8月、MCIの父(当時85歳)を、拙宅に引き取った時、「父も、母の様に、認知症がどんどん酷くなっていくのではないか?」と、恐くて仕方なかった。「冠動脈カテーテルステント手術」で、心疾患は治療できたとしても、「認知症」を「発症」してしまえば、どうにもならない。
”「認知症」は、「脳死」と同じだ・・・。”
いくら心臓を治しても、いくら歩けるようになっても、「脳」が死んでしまっては、「植物人間」と同じではないか・・・。
”それで、生きている価値があるのか?”
母の度重なる暴言、被害妄想、徘徊、介護拒否・・・それが認知症特有の周辺症状だと知っても、えぐり取られる心の傷が癒える事は到底なかった。
娘時代からの険悪な母娘関係、母が長い間患っていた「うつ病」や「統合失調症」などの精神疾患、生まれ持った母の性格、そういったものが、「認知症」を引き起こしたのだと思っていた。
つまり、母が「認知症」になったのは、自己責任。
「あんたが悪いんだろう!!💢」
「あんたが、そういう性格だったから、認知症になんかになるんだよ!!💢」「どこまで、娘を苦しめれば気が済むんだよっ!!💢」
そんな時、心を鎮めようと、独り「認知症」の関連本を開けば・・・
ー「認知症」を理解して、優しく穏やかに接しましょう。ー
ー BPSD周辺症状だと理解しましょう。ー
”知るかよっ!!💢”
と、脳内逆ギレ連発。
実践的な「テクニック」だけを読み取り、「認知症」を「理解しよう。」などという、心の余裕は、全くなかった。
「理解する必要などないっ!! ”対処法”だけ、知っておけばいい。」と、考えていたからだ。
だがしかし、その「対処法」でさえ、母には利かぬ。
故に、母に対する苛立ちや憎悪ばかりが増えて行く。
当たり前だ。
「認知症」を正しく理解しようとしていなかったのだから。
母と向き合おうとしていなかったからだ。
悪循環だった・・・。
「認知症」が「死に至る病」だと知った時には、正直、「ざまぁない。」と、溜飲が下りた。母は、狂い死んで行くのだと。
認知症で、こんな酷い状態を見せるのは、母だけだ。
爺ちゃんだって、婆ちゃんだって、親戚にだって、近所のお年寄りにだって、こんだけ、酷く壊れているのは、他に誰もいない。
しかし、その陰には、爺ちゃんや婆ちゃんの事を24時間365日、常に、支えてくれた誰かしらの「介護の手」があったことに、私は気づけなかった。
”母だけが、特別なんだ。母は精神疾患があったから。”
”母の「認知症」は、他の人の「認知症」とは違う。”
そう思い込んでいた。そう思い込む程、「恥ずかしい。」と思って、どんどん引き籠もっていた。
介護申請?地域包括センター?介護サービスを受けろ?
”こんなにとち狂った自分の母を、まさか、世間に晒せと・・・?”
恥ずかしくて、出来るわけがない。
どんだけ、その方面の皆さんに迷惑かけるかって・・・。
介護申請をようやく出したのは、母の介護で精魂尽き果て、倒れた父を救うためだった。母の為なんかじゃない。
母はもう、どうでもいい。もう、母の「脳」は、死んでいるのだから。引き取ってくれる施設があるなら、どこだっていい。どうせ変わりはない。
”今、救わなくてはならないのは、父だ。”
”父の退院までに、何とか母を施設へ収容してもらわなければ・・・。”
そんな決死の思いで、母を施設へ預け、ようやく父を我が家に迎え入れた時には、父は、既に、母と同じ、「認知症」の不穏な症状を抱えていた・・・。
どうすりゃいいの?!😱
母が「認知症」になったのは、それは”母”だったから、だろう?違うの?
父も「認知症」になるの?
母の様に「BPSD周辺症状」とやらが、ドンドン、酷くなっていくの?
また、あの暴言や徘徊に散々に振り回され、耐え忍んだ「暗黒の日々」が繰り返されるの?
それでは、なんの為に父を救ったのか、全く、意味がない・・・。
心の中で沸き立つ「怒り」と「憎しみ」を押し殺し、付け焼き刃の「対処法」だけで、介護という事案に向き合う事の”非情”さは、母だけでいい。
あんな思いは、もう沢山だ・・・。
何より、認知症の介護をする事で、ドンドン心が壊れて行く自分自身が、たまらなく嫌だった。
そんな時、私を救ってくれたのは、「もう、どこでもいい!」と、恥を忍んで母を預けた「小規模多機能型居宅介護施設」の湯ばぁー婆施設長との出逢いだった。
これは、「認知症」の性質を的確に捉え、且つ、「認知症の終末」が、どうあるべきかを教えてくれた。
環境の激変で、さらに、妄言、妄想に荒れ狂う母を見事な手腕で鎮め、枯れ果てて、もう”お迎え”を待つばかりという母に、「穏やかな笑顔」と「誰かの役に立てる。」という「人生の悦び」を取り戻してくれた。
”介護(ケア)の力って、凄いな・・・。”
「怒り」や「苛立ち」「憎しみ」による「パワープレイ」ではなく、「心ないテクニック」でもなく、「理論」や「分析」に根ざした「正しいケア」をすれば、根治できないと言われている「認知症」も、ある意味、克服できる。
”例え、「認知症」を発症しても、最期まで穏やかに、人生を終える事が出来るんだ・・・。”
湯ばぁー婆施設長は、それを身をもって教えてくれた。
とても鮮やかに。
それは、失意の中で、もう一度、はじめから、「認知症」と向き合う意欲と勇気を私に与えてくれた。
「知識は武器」だが、その”武器”は、正しく使ってナンボだ。
「トライ&エラー」を繰り返しながら、ようやく「武器」の使い方に慣れ、その結果、父の「せん妄」も解け、「穏やかな笑顔」が増える様になった。
だが、「認知症」を知れば知る程、正しい知識や武器の使い方を知れば知る程、母のBPSD周辺症状を深刻にしていったのは、ひとえに、私の「無知」であり、不徳の致す所だったと痛感する。
認知症の進行を爆上げさせ、母を早期の死に至らしめたのは、他ならぬ、私自身の無知で身勝手な対応ではなかっただろうか・・・。
母を施設で看取った時には、「これでようやく嵐が過ぎ去った・・・。」という、何とも言えない安寧の気持ちしかなかったが、日に日に不穏な症状が消え、穏やかに笑う様になった父を看ていると、母への自責の念が込み上げてくる・・・。
だがもう、母との関係は修復できない。
もっと早く、「認知症」に関心を持ち、「認知症ケア」を学んでいたら、もしかしたら「認知症」の発症をきっかけにして、母との信頼関係を再構築する事もできただろう。
私の事を娘だとわからなくなっても、「この子といれば、安心だ。」と、今の父の様に、穏やかに笑ってくれたかも知れない・・・。
私は、母の事が嫌いだった。
だからこそ、薄汚れて老いさらばえていくのが許せなかった。
老いてなお、私の言う事を聞き入れてくれない母が許せなかった。
その痩せた細い身体に触れる事さえ、ヒリヒリと胸が痛んで嫌だった。
だけど、それは、母の事が好きだったからなのだ。
この世に生まれ、初めて私を抱いてくれたのは、母だったのだから・・・。
「認知症」は「発病」してから、「発症」するまでに、20年の歳月がかかるという。74歳で「アルツハイマー型認知症」だと診断された母は、少なくとも、今の私よりも若い頃に、すでに「発病」していたという事だ。
その頃、私は27歳。人生の花形ステージにいる頃で、こじれた母娘関係を修復しようなんてぇ、気持ちは、これっぽっちもなかった。あの頃、母と忌憚なく笑顔で会話ができる様な関係だったら、もっと楽に、穏やかに、母の介護が出来たのかも知れない。
今更、いくらそう思っても、もう挽回はできない。
『介護とは戦略だ。』
それは、決して、母の認知症介護の「成功体験」から生まれたもんじゃない。私自身の「しくじり」、大きな過ちと後悔から生じたもの。
私は、本当に愚かな娘だった・・・。
だから今、これを読んでいるあなたに、もし、心当たりがあるならば、私のこの「人生のしくじり」を、糧にしてくれたらと、心からそう思う。
「認知症」になった人も、「認知症」を介護する人も、穏やかで、幸せであって欲しい ―――。