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#144【介護雑記】私が「在宅介護」を決めた理由。

父は元公務員なので、いざとなれば介護施設へ入居できるだけの資金的余裕はある。しかし、それでも、私が「在宅介護」を決めたのには理由がある。

今回は、そのことについて書いてみようと思う。


◼️在宅介護を決めた理由、その1.


~ 病院での認知症患者に対する医療行為は、「投薬」と「身体拘束」しかないという現実~


2022年8月、父が心臓発作を引き起こし、救急搬送されたのは、近隣でも老舗の大型中核病院の「循環器内科」だった。この病院で、私の祖父、祖母、叔母が世話になり、看取られた。地域では信頼の厚い病院である。

父が搬送されICUで処置を受けている時、担当の看護師から、「心肺蘇生」など「延命治療に関する書類」と「身体拘束に関する家族の承認を得る書類」にも、その場で、サインと捺印を求められた。(ハンコは翌日持って来いと言われた。)

目の前で肉親が緊急処置を受けているという、こんな非常事態に、そんな書類を出されて、サインを求められれば、そりゃー、誰だって、承諾せざるを得ないだろうよ・・・。

もしかして、恫喝?! なんのハラスメントなの?!

”なんだか、やり口が卑怯だな・・・。”と、思いつつも、父を何とか助けて欲しい一心で、私は、出された書類の真偽を確かめる間もなく、ICUの暗い隅の一角で、黙々と日付けと署名を書きまくった。

「身体拘束」に関しても、承諾書にサインをした。

昭和12年生まれで、身長が176cm、いくら筋力が衰えたとはいえ、ゴリラの様なガッシリとした体格の父、「万一、暴れれば、男の看護師だって、かなわないだろう。」そう判断した反面、父にはまだ「社会的判断力」が残っているから、素直に治療に従えるはずだ・・・(暴れる可能性は少ない。)と考えていた。

ところが、容態が落ち着き、意識が戻って来た父は、「せん妄症状」を引き起こした。

病院は、眠剤もしくは鎮静剤を投与した上、父の身体をベッドに拘束した。「せん妄」によって、24時間注入されている点滴の針を抜いてしまうので、両腕も拘束された。

「身体拘束」に関して、承諾書にサインしたのだから、これはしょうがない。私が・・、サインしたのだから・・・。

それでも、元来、指先の力が強い父は、自力で拘束を解いて、2本の点滴の針をひっぱ抜き、ベッドから起き上がると、「腓骨神経麻痺ひこつしんけいまひ」で、ごっそりとスネの筋肉が落ちた右足を引き摺り引き摺り、院内の廊下を彷徨い歩いた ――。

ランボーかっ?! ターミネーターか?! って話ですよ。

これには、夜勤の看護師達もビックリだ。

身体の大きい父には、通常の高齢者男性向け適正量の眠剤や鎮静剤、麻酔の量では効かない。父を大人しくさせる薬量は、どんどん増えて行く。

ほんの軽い「せん妄」への「医療処置」が、次の「せん妄」を呼び、どんどん深くしていっているわけで。さらに、身体拘束は厳重になる。

薬が切れれば、反骨精神の高い父は、さらに、激しく抵抗しようとする・・・。

だが病院側は、「お父様は、”せん妄”です。それに認知症も発症している恐れがある。危険回避の為に、投薬して身体拘束をするのが、適正な処置。」というスタンスを崩さない。

「助けて欲しい」という一心で、「身体拘束の承諾書」にサインしてしまった手前、それに文句のつけようもない・・・。

確かに、父は「せん妄」だろう。認知症も発症している可能性は高い。病院の医療処置は適正だろう。

だがしかし、

だがしかしだ・・・、

父には、「早く家に帰って、H子を看てやらねば・・・。あいつが心配だ・・・。」という、しっかりとした「ことわり」があるっ!!
父は、自分の役目を果たしたいだけだ。

患者には患者の理ってもんがある。

なぜ、そこに耳目を傾けてくれない?!あんた方、それでも医者か?!看護師か?!

 
私は、病院の「せん妄」や「認知症患者」への対応に、並々ならぬ不快感と深い疑念をもった。

そこへ持って来て、なんと、「患者の危篤の知らせ」を、取り違えるという重大事故が勃発した。⬇️⬇️⬇️

こいつぁ~千載一遇のクレームチャンスだっ!!!✨✨✨


私は、「父の眠剤の量と身体拘束が、本当に適正なのかどうか?」を、厳しく詰めるレポートをA4サイズに5枚、ビッシリとしたためて、カンファレンスに臨んだ。

こうして私は、父の「せん妄」と「身体拘束」という「医療処置」について、一矢報いるリベンジを果たした。

だが、それは同時に、「認知症患者」に対する医療の底の浅さ、「せん妄」や「認知症患者」に対しては、「ただ投薬をして、身体拘束して大人しくさせとけば良い。認知症は治せないのだから。」という、無関心さ、冷たさを、まざまざと学んだ。

現行の認知症医療に、命に対する尊厳など考慮されてはいない。そもそも、一般急性期病院に認知症患者の居場所なんてないのだ。

それがにっぽんの高齢者医療の現実。

私は、もう二度と、医療処置や介護の為に、父の「身体拘束の承諾書」にサインするつもりはない。

もう二度とだ。

例え、生きる為であっても、父の「命の尊厳」を奪ったりはしない。

それはつまり、今後、父に何があっても、「手術」や「入院」などの医療行為は受けられない事を意味する。従って、「身体拘束」に関する承諾書を記入しなければならない介護施設への入居も”不可能”と想定しなければならない。

ならば、「在宅介護」をするしかないー。

「在宅介護」をするには、「認知症介護」や「在宅医療」「緩和ケア」、「福祉住環境」、そして、介護の先にある「看取り」まで、もっと勉強しなくては・・・。


◼️在宅介護を決めた理由、その2.


~介護制度の「自立支援」というキャッチに異議あり~

これについては、noterのyumiパンダさんの所でも、よくコメントする機会がある。

現行の介護保険サービスを包括する理念は「高齢者の自立支援」が目的とされている。

いやいや・・・ちょっと待て・・・💧

そもそも、介護保険サービスとは、高齢による心身の様々な衰えや、認知症の発症により、日常生活に困難を来たす深刻な状況だから、利用したいわけですよ。

そういった弱者に、”自立”しろと?!

おかしくねっ?!なに?その矛盾・・・。


ましてや、認知症は進行性、リハビリで進行速度を若干、緩やかにするのは可能かも知れないが、どんなにリハビリしたって、「自立生活」までは回復できませんよ?(むしろ、朽ちていく方向なんだから・・・。)

それなのに、本人が望まない、リハビリやレクを強要し、それを拒否すれば「問題行動」だとレッテルを貼られ、生体的にもう機能が低下して、食事も必要なくなっているのに、無理矢理食べさせたあげく、「誤嚥性肺炎ごえんせいはいえん」を発症させたりするのは、体の良い「虐待」だろうとさえ私は感じる。

でもそれが「自立支援」を理念とする法体制下での「介護職」の”正道”なんだから、しょうがない。現場のスタッフさん達に罪はない。

しかし、私が父に望む介護は、介護施設で掲げられている「自立支援」でないのは明かだった。

父に必要なのは、「自立支援」ではなく「見守り」だ。
過度なリハビリやレクはいらない。

それこそ、行きたい所へ、行きたい時に、自分の足で歩いていける環境と、観たいTVを観たい時に楽しめるとか、好きなモノを食べられる量だけ食べ、出来ない事や不安があれば、直ぐに気兼ねなく聞ける、誰かがそれとなく助けてくれる。

何よりも、いつも誰かが、「ただいまぁ~。」と、帰って来てくれる・・・。

ちょっとお喋りして、笑ったり、時には喧嘩したり、でもまた直ぐに、一緒に食卓を囲める、洗濯機を回す音、ご飯が炊ける音、飯の支度をしている音、コーヒーの良い香り・・・。

そういう日々の暮らしの”音”や、息づかいがある。

”そんなのを薄っすらと感じながら、すぅっと、逝けたらいい・・・。”

なんて言われたら、「在宅介護」しかないw


私が「在宅介護」を決めた、この2つの理由については、父のケアマネさんやヘルパーさん達とも共有している。

しかし、最後の最期、どうしても「在宅介護」がしんどくなった時には、「施設への入所」という対応が迅速に取れるようにとの”退路”も確保している。

「在宅介護」も、いってみれば、ひとつの”家内事業”だ。
ひとりではできない。
多くの人の共感や手助けが必要不可欠。
人との繋がりは、大切にして行きたい。

知識は武器。
介護とは戦略だ。


【 私が在宅介護を決めた理由 】シリーズ


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