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#153【介護雑記】人は何故、親の介護をするのか? ~介護を哲学する~

そもそも、人間には親を「る(介護する)」というDNAはない。

人間を含めた、あらゆる生命体には生殖して子を育てるというDNAはあっても、親の老後をみるという遺伝子はプログラミングされていない。

それなのに、「人は何故、親の介護をするのか?」

遺伝子に組み込まれているわけでもないプログラムを達成しようとするのか?

そもそも、そっからして、無理があるのではないか???

DNAにも組み込まれていない、どうみても後発的事案に、わざわざ取り組んで、人は、一体、何を達成しようとしているのか?何を得たいのか?何に満たされたいのか?

介護なんて、苦しく面倒クサい事ばかり。
要介護者が認知症を発症すれば、益々、過酷な介護になっていく。金はかかるし、人手もかかる。時には、経済的身体的、自己犠牲を強いてまで、親の介護にのめり込むケースもある。

それに、いくら手厚く親の介護をしても、結局、最後には、親の命は尽きていくのだ。”その時”が来れば・・・。

それなのに、人は何故、親の介護をするのだろうか ―――?

それはつまり、”人間だから” だと、私は考える。


◼️人間と動物の違いは何か?

そりゃ色々と思い浮かぶ事柄はあるだろう。列挙にいとまはないはずだ。私的に、真っ先に思い浮かぶのは、「思考/思想」を持った事、「宗教」を持った事だろうと考える。

そして最大の違いは、「死者をとむらう」という行為あるいは思考/思想を持ったこと。これは他の動物にはみられない。何故なら、DNAには組み込まれていないからだ。

一説によると、約6万年前、ネアンデルタール人が「死者の遺体をほおむり、花を捧げた」形跡が発見されている。これが世界最古の「お葬式」。

DNAには組み込まれていないのに、人類は「死者をとむらう」という思考と行動に打って出た。

彼らは、どうして、死者の遺体を葬ろうと考えたのか?

それまではきっと、遺体は彼らの生活コミュニティとは、ちょっと離れた所に、適当に放られ、他の動物達のエサになったり、風雨に晒され、自然の摂理にまかせるまま、無造作に朽ちていったはずなのに・・・。

ある日、それを”良し”とは、出来なくなった。

死者を放置しておくことは、「尊厳が朽ちていくさま」を、まざまざと見せつけられる事・・・。その並々ならぬ苦痛や不快感に、彼らは、気づいたのだ。

だから彼らは、遺体をほおむり、花を手向たむけ、とむらった。
死者の尊厳を、他の動物達や風雨から守る為に。
それは、人類が初めて「自然の摂理に抵抗した行為」とも言える。

この瞬間に人は、「人類」から「人間」に、大きく進化したのではないだろうか?と私は感じている。

「人類」は「尊厳」を知り、それを大切に弔うとむら事で「人間」になった。

しかしまた、それは同時に、人間は、他者の命を奪わずとも、「尊厳」を奪う事で、他者を制裁、あるいは、支配できることにも気づいてしまった・・・。

これが人類、最凶の不幸だったと、最近よく思う。

「毒親問題」「機能不全家庭」というミクロ事案から、「セクハラ」「パワハラ」「カスハラ」、そして、「紛争」「戦争」というマクロ事案まで・・・。

全て「尊厳」への侵略、略奪、破壊によって、他者を支配下に置き、自己の利益を獲得しようとしているわけで。そうしなければ、人間は生きて行けない、”非情な生きもの”なのか・・・とさえ思う。

どうりで生きづらい世の中になったワケだ。


さて、話を戻そう。

”「人類」は「尊厳」を知り、それを大切にとむらう事で「人間」になった。”

そう仮定するならば、当然、「死に行く者」、怪我や病気で「死期が近づいている者」にも「尊厳」を見出しただろう。

医療も何もなかった中期旧石器時代、とむらいまでの期間、「死期が近づいた者」の苦痛や不遇を少しでも和らげようと、水や食べ物をもって、そばに寄りそう者達がいたはずだ。

例えそのような痕跡が残っていなくとも、そうであったと思いたい。「とむらう」という「尊厳」に目覚めた「人間」だったのだから。

そして、それこそが、「介護」や「看取り」の原点だったのではないだろうか?

「自立支援」なんかじゃないw
「死期を迎える者」への寄り添い。

それまで、供に生きてきた者として、朽ちていく、その命の尊厳を自然の脅威から守る為に ――。

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現時点で世界最古の医学と考えられているのは、古代エジプト医学、紀元前33世紀頃に確認されている。ファラオの亡骸をより完璧なミイラに仕上げる技術の開発は、後の医療技術を大幅に発展させたに違いない。

その他、インドのアーユルヴェーダ医学、中国医学、ユナニー(グレコアラブ)医学などが世界三大医学と言われている。

だが、そういった、”医療”という”文明”を持つ何万年も前から、人間は「介護」や「看取り」だけで、命の終末期を乗り切り、「とむらう」という事で「命の尊厳」を、厳しい自然の摂理から守ってきたわけで。

思えば、なんとグレイトな案件なのかと。

しかし「尊厳」というのは、あくまでも人間という生きものの「感性」や「社会的経験」に根ざしたものであり、生体的DNAに組み込む事はできない。

だから、社会(コミュニティ)の中で、「伝承」や「伝統」という形で、人々の「記憶」に残し、厳しい自然の摂理から「命の尊厳」を守る一連の行為が、連綿と営まれて来たのだろう。

それは更に、「宗教」を迎える事によって、人間は「死生観」という「概念」を持ち、それを遵守するべく「介護」「看取り」「とむらい」という一連の行為が宗教的教義に則って、マネジメントされる様になり、より細分化され、確立されていった。

「親の介護は子供がする。」という”フォーマット”も、多分、この頃の宗教が人々に盛んに説いた、「慈愛」とか「孝行」とか、そういう宗教的教義から、派生したのではないだろうか?(多分なのw)


◼️「神は死んだ」

日本で最も有名な哲学者とされる「フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年」は、文明や科学、医学が激しく進歩を遂げていた19世紀後半、「神は死んだ」と説き、それまで多くの人々が信仰していた古い宗教観や死生観を大きく揺るがせた。

私はこの時代の前後で、人間は「命の尊厳」を、急速に見失って行ったのではないかと考えている。それが証拠に、ニーチェが逝去した数年後の1914年に、「第一次世界大戦」が始まっている。

重火気兵器の圧倒的進化により、とむらい切れない程の大量の命が、いっぺんで失われる時代に人間は突入していった。「命の尊厳を守る」のではない、積極的且つ大量に効果的に「命の尊厳を奪う」時代へと変貌へんぼうしていった。

スターリンがウクライナで行った「ホロドモール」も、ヒトラーが行った「ホロコースト」も、「神は死んだ」としか思えない凄惨な人間の所業だ。

そんな時代が、1945年8月に「第二次世界大戦」の終戦を迎えるまで、約100年続いたとも言える。この100年の間、戦争によって否応なしに奪われる「命の尊厳」、もはや「介護」や「看取り」などしている暇はない。丁寧な「とむらい」もしている暇もない。

医術も医療資源リソースも、病や老衰で「死期を迎える者」達よりも、戦地で負傷した若い兵士達の命を救う事を第一義にしなければならない。

現代医学の根底にある「生きる力がある者を優先に医療を行う。」という概念は、この時代に構築され、今日まで引き継がれているのだろう。

根治できない疾患を持つ者や、死期の近い高齢者の「介護」や「看取り」は、「他でやれぃっ!!」と、ていよく医療から切り離されたのも、この時代だと考える。

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おおよそ100年に渡った世界的大戦争の時代は、「命の尊厳を守る」という、いにしえから続く社会的慣習や価値観を大きく変えた。

戦後、死期の近い高齢者への「介護」や「看取り」に、構っている暇はない。働ける者は、どんどん働いて戦後復興を遂げなければならない。「数日で済むとむらいだけ、ちゃんとやっときゃいい。」これは世界的流れだったのではないかと考える。

しかし、そのおかげで日本は高度経済成長を遂げ、「核家族化」が進み、益々、「在宅介護」や、自宅での「看取り」を経験する機会は減っていった。

都心部では狭い住宅事情から、自宅で葬儀する事が減り、その分、「葬儀屋」が大きなホールを構える様になり、「とむらい」の形式も、より簡略化されていった。

気がつけば、人々は、「何故、介護をするのか?」という事も、「看取り」をする事も、そして、「とむらう」ことさえ、忘れてしまった・・・。

それは、自分達の手で「命の尊厳を守る」という事を忘れてしまったという事ではないだろうか?

6万年前、「人類」は「命の尊厳」を知り、それを大切にとむらう事で「人間」になった・・・と、いうのに。

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こんな論考を組み立てていると、「毒親の介護」なんて、そもそもが無理だと分かる。幼い頃から自分の尊厳を踏みにじり、奪って来た親の事など、「かたき」であるこそすれ、その親の命の尊厳など預かれるわけがない。

最悪の場合、それまで被害者だった子供が、加害者となり、弱った親を虐待し始める。それを「毒親だったのだから、許される!!」と思い込む。こういうのを本当の「リベンジ介護」っていうのだろう。

「養ってやってんだよ!ありがたく思え!」
「きたねーな。お前なんか早く死ねよ!!」
「何やってんだよ?!このバカがっ!!」
「気に入らないなら、出て行けよ!! 一人じゃ何も出来ないクセに!!」
「”ありがとう”って、言えねぇのかよ?!」

親の介護で子供が加害者になる瞬間ベスト5

かつて親に言われて辛かった言葉を、親に向ける事ができる。

この爽快感、優越感に子供達は溺れて行く。だから、親の介護を手放せない。手放してしまったら、リベンジ出来なくなるからだ。

特に、親ひとり子ひとりの世帯は、「リベンジ介護」に陥りやすい。

何という悲惨な連鎖だろうか・・・。

だから、「毒親の介護」は、正しく手放すべきだと私は思うのだ。「毒親」の連鎖を断ち切るのは、その子供にしか出来ない。

自分自身と親の「命の尊厳」を守る為に。


人は、何故、親の介護をするのか?

私達は何故、誰かの介護をするのか?

あなたは、何の為に、親の介護をするのか?

介護に立ち向かう時、人として、どれだけ機能しているか?
試されているのは要介護者ではない。
介護者である、”私達のほうなのだ”と、私は感じている。


徒然なるままに、つまらない私見におつき合い下さり、
心より厚く御礼申し上げます。

知識は武器。介護とは、”人間哲学”w


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