#145【雑記】永遠の愛 ~約束を守った男の話~
この物語は、今から15年程前、仕事の関係で何度かご自宅に訪問していた、あるお婆さまから伺った実話である。生涯で何度も聞けない、決して、忘れたくないストーリーだったので、日記に書き留めておいたものを元に、書き起こした。
とても好きな家がある。
新築してまだ数ヶ月しか経っていないその家は玄関が、引き戸だ。
モダンなアルミのずっしりとした”ドア”が主流の中、引き戸にする御宅は、めずらしい。引き戸を開けると、室内に贅沢に配された、白木の木材の、清楚で清々しい香りが、すぅ~と鼻先に入ってくる。
木のいい香りに、思わずうっとりとした目を開けると、ほっこりとしたおばあちゃまが、いつも優しい笑顔で迎えてくれる。
玄関が引き戸であるだけでなく、室内の扉も、すべて白木の引き戸。
これは、この家を建てた家主が、ご高齢になる、このおばあちゃまを慮っての設計だとすぐにわかる。
ドアよりも、引き戸の方が、お年寄りには、優しい設備なのである。
壁にも、全て、肌触りのやさしい白木の手すりが配されていた。
充分にお金をかけた家、贅沢な家だ。
しかし、私がこの家を好きなのは、決して贅沢な造りの家だからではない。
もっと贅沢な造りの家は、他に何軒もある。
”なんだろうな・・・?!"
いつも玄関へ入ると感じる、この感じ・・・
何かあたたかいモノに優しく包まれるような、この感覚、雰囲気か・・・?
それは、この御宅だけに感じる不思議な感覚だった。
もう何度も訪ねていて、顔見知りになった私は、お婆さまにこう言った。
「いつ来ても、良い”お家”ですよね。素敵な家だなって、いつも思います。」
すると、お婆さまは、たいそう喜ばれて、こんな話をしてくれた。
お婆さまは、名前を、”かずよさん”といった。大正生まれの今年、83歳になるとゆう。(ご存命であれば、現・98歳)
いやぁ、若いっ!!
見た目は、60代後半からせいぜい、70代前半って所だろう。
すでに他界したご主人は6つ年上。この家は、長男夫婦が新築したらしい。亡くなったご主人は、ご存命であれば、89歳。名は、ダイスケさん。
ダイスケさんは、貧乏大家族の4男坊に生まれ、20歳になるやいなや、口べらしの良い口実を待っていたかのように、徴兵検査を受検し、25歳までの約5年の歳月を、太平洋戦争に捧げた。
はるか南太平洋、死闘が続く激戦地帯を5年もの間、闘い、そして、生き抜いた”戦士”である。
戦争から帰ってきてから、ダイスケさんは、かずよさんと知り合った。当時、かずよさんには、もうひとつ、親が決めてきたお嫁入りの口があって、かずよさんは、悩んだらしい。「どうしよう・・・。」と。
その時、ダイスケさんは、こう言って、かずよさんにプロポーズしたんだそうだ。
この言葉に、かずよさんは、
「なんて正直な、なんて真摯な人なんだ・・・。私は、誰かに幸せにしてもらうんじゃなくて、この人と、幸せになっていきたい。」
そう決意したが、かずよさんのご両親は、これに猛反対。
そりゃそうだ。ダイスケさんは、戦争帰りの”復員兵”、ろくな仕事にも就いていない。娘が貧乏するとわかっていて、快く嫁に出す親など、当時は、ありえなかった。
「ダイスケ”と一緒になるなら、この家のモノ(財産)は、一切、なにもやらない。里帰りも許さないっ!! 親娘、兄弟の縁を、全て切るがいいか?!💢」
両親の激しい仕打ちもなんのその、かずよさんが、ダイスケさんと一緒になる気持ちは、ちっとも、揺るがなかったんだそうだ。
お茶碗ふたつだけをやっと揃えた、”ダイスケ&かずえ”の新婚生活が始まった。今から75年前の事である。
それからダイスケさんが、必死で就活してありついた仕事は、某国営放送局の受信料の徴収員。当時の受信料は、一世帯¥200円。
担当エリアの家を一件一件、雨の日も風の日も廻って、なかなか支払ってくれない家に、何度も足を運び、なんども頭を下げ、やっと得た収入は、一家4人が暮らしていくには、やっとこだった。
そして、その約束は、ご主人の体が動けなくなるまで、亡くなる直前まで、毎年、守ってくれたんだそうだ。50年以上も、ずっと。
”僕は、絶対に、あなたを”ひとり”にはしない ―――。”
太平洋戦争の激戦地をくぐり抜け、死闘を耐え忍んで還って来た男の求婚の言葉に、私は、ドーン!と、胸をえぐられた。
それは・・・、
それは、多分、明らかに、戦地に遺して来た同胞達への無念の想いが、反映されたものだったのではないかと・・・。
”だから、もう、僕は、絶対に、愛する者を、ひとりにはしない。”
そういう事だったのだろうな・・・ダイスケさん・・・。
「太平洋戦争」とゆう、大きな、激しい時代を乗り越えてきた夫婦の話を、まさか仕事中に、こんな間近で、こんなリアルに聞くとは思っていなかった。
南太平洋の激戦地帯と言えば、地獄の様な戦場であった事は、ドラマや映画で知っている。
実際、ダイスケさん自身も被弾した傷が、体の数箇所にあったらしい。乗っていた駆逐艦に魚雷が命中し、沈む船から救出された事もあった。
銃撃戦の中、次々と倒れていく同胞達、常に不足している食糧と水。気の遠くなるような湿度が、その遺体をすぐに腐らせていく様を、横目で見ながら、銃弾の中を、時にはスコールの中を、必死で走り抜けた。
次第に、そして、刻々と、神経が蝕まれていく・・・、
夜中、まるで獣の様なうめき声を上げ、うなされているダイスケさんを、かずよさんが心配して起こした時、そうポツリと漏らす事が、新婚時代はよくあったそうだ。
ダイスケさんが、心身ともに戦場で受けてきた傷は、一体・・・、
一体、どれほどのものだっただろうか?
とても私達世代が想像できるもんじゃないだろう。
神経内科で言う所の”PTSD(心的外傷後ストレス障害)”とは、ベトナム戦争後に、その研究の頂点に到達し、広く公に知られるようになったと言うが、
その研究は、当然、太平洋戦争時代も行われており、近年、日本人の一部の復員兵が、このPTSDの被験者であったとゆう資料が発見された・・・、との報道を目にした事がある。
”PTSD”なんて、現代の、この時代の流行りモノのように思っていたが、それは、まったく誤った認識だったと気づく。
思えば、戦後、多くの復員兵の方々が、このPTSDに襲われ、当時、ろくな治療法も知識もなく、人々からの偏見と差別を受けながら、どれほど、苦しんだことだろうか・・・?
ダイスケさんも、症状の大小はあれ、きっとこの”PTSD予備軍”であった事は、間違いないだろう ―――。
だが、それでも彼は、かずよさんとゆう、ひとりの女性を愛した。
そして、授かった二人の息子達を愛した。
愛して愛して、
守って、愛して。
雨の日も、風の日も、雪の降る夜も・・・。
受信料の”徴収員”だとゆうだけで、陰口言われたり、後ろ指さされる仕事だった。それでも、彼は、ひと言もグチをごぼさず、毎日、家を出て行ったのだという。
ダイスケさんの口グセだったらしい。
戦争が、彼の、”人としての心”を、残らず奪い獲っていたはずなのに、彼は、再び、”かずよさん”とゆう”希望”を見出し、残る一生を賭け、見事に、愛し抜いた。
ダイスケさんに限らず、そう生きてきた男達がいたんだ。
今のこの日本に・・・。
「主人がね、生きているようなのよ。今も・・・。」
そう。
この家がもつ独特の空気は、まさにそれだとわかる。
60歳を超えた、この家の家主である長男さんは、亡くなったご主人のその頃に、姿も、話しぶりもそっくりになって、「長男を見ていると、主人といるようで、胸がいっぱいになる事があるのよ。」と、かずよさんは、目を潤ませた。
この家には、”ダイスケ”とゆう、ひとりの男の魂が宿っている。
その魂が、今でも、家族を守っている。
今でも、かずよさんを愛している。
かずよさんも、それを感じている。
そして、父が愛した小さな小さな庭石を、新しい家の庭に、母がいつも見られる場所へ配した息子もまた、家族を愛した父を、愛している。
”僕は、絶対に、あなたを”ひとり”にはしない 。”
そう約束したダイスケさんの魂が、この家には満ち満ちているのだ。
あらためて、それを感じた時、不覚にも、私は、お客様の玄関先で、沸々と涙が溢れてしまった・・・。
そんな、かずよさんのありがたいお言葉を頂戴し、私は、仕事を済ませて、その家を後にした。
玄関をそっと閉めてから、私は、もう一度、その家を振り返り、深く頭を下げた。それは、本当に、はじめて身近に感じた「英霊」に捧げる、熱い想いだった。
”永遠の愛”があるとしたら、こういう事なのかも知れない ―――。
過酷な戦場と激動の時代を経験しながら、後に、あれだけ愛に溢れた家を、息子に造らせたダイスケさん。そして、かずよさん夫婦。
人間の心とは、思ったよりも、もしかして、ずっと、強いのかもしれない。
この恵まれた時代に、ちょっと位の凹みネタで、すぐに”鬱だ”の、”PTSD”だのと、軽々しく言って、逃げ込む場所を探してしまうばかりの自分を恥じた。
もっと、自分の強さを信じよう。
魂の強さを信じよう。
そして、やっぱり愛だ。
”愛の強さ”を信じられる自分でありたい。
強烈にそう思った出来事だった。
永遠の愛 ~約束を守った男~ 完。