#63 深淵を覗く者達へ ~ 老々介護の果てに。「外伝」~
2年前の今日、私は父と母の介護申請の為、役所の窓口にいた。実家から、わずか徒歩5分のこの窓口に来るまで、既に7年を要していた。
前夜、父が心不全を起こし救急入院したのを機に、認知症の母を、直ぐにでも、施設で「緊急保護」してもらいたいと考えていた。
私や弟達など、介護ができる親族が近隣にいるのに、なぜ、認知症の母を、「緊急保護」する必要があったのか?!
そして、それは何故、介護申請の即日に行われたのか?!
実を言えば、役所の介護福祉窓口担当者に、私は、「私から母を保護して欲しい。」とお願いしたのだ。このまま行けば、私はきっと、母に手をかけてしまうだろうと・・・。
これは脅しでも、気が触れた訳でもなく、今、母や私が置かれている状況を複合的に考えた時、それが一番、最善最良の方法だと思えた。そうすれば、私も介護の苦悩から抜け出せる、父や弟達も、その家族も、私の家族も、認知症の母から発せられる心ない攻撃から護ることができる。
そのくらい、母の症状は酷かった。もうとっくに、本来の母の魂はその身体から抜け、「ヒドデナシ」になっているとしか思えないほどに・・・。
それが昼夜問わず、歩き回り、わめき回り、父や私を罵る。仕事で接客中でも、クレーム処理中でも、大事なクライアントとの打ち合わせ中でもおかまいなしに、何度も電話をかけてくる。
それは、もう、今までに経験したことのない『恐怖』でしかなかった。
『認知症』という不可解な病に、有無を言わさず、自分が大切にしてきた、仕事も家族も平穏な時間も、何もかもを奪われる、圧倒的、恐怖。
母への愛情?優しさ?BPSD周辺症状への理解?アンガーマネジメント?
いやいや、そんな”神対応”は、表向きだけ繕うのが精一杯だ。
「そうしなくてはならない。」と、自分の心に言い聞かせる度に、”恐怖”に支配され、それに屈しているような、得も言われぬ屈辱感に襲われ、母への憎悪と失意は増すばかりだった。
『認知症』だから、年老いた親だからと、何を言われても、何をされれても、”理解しろ”、”受入れろ”、”冷静になれ”と、反撃は許されない。ひたすら、忍耐と寛容さを求められる。
そんなの『家庭内DV』と同じだろう?
「認知症の親を虐待するのか?!」
いやいや、その認知症の親から虐待されているのは、こっち。
家族介護者だ。
それでも「認知症は死に至る病、」と知ってから、「いずれは死ぬのだから。」と、優しくもした、冷静に対応しようとも努めた。
「何とか良い終末を・・・。」と考えに考えた、そう考えることで、一時的には、自分が心身に受けている苦痛が和らいだから。
だが、「これが一体、あと何年続くのか?」と・・・。
どんなに周辺症状を勉強した所で、刻々と変化する"認知症の不条理"を呑み込むことはできない。家族の誰も。家族である限り。
母の介護により、30年以上心血を注いで来た仕事へのパフォーマンスも低下せざるを得なかった。苦楽を供にしてきた同僚や部下に、どれほど迷惑をかけていることか・・・。それも、たまらなく辛い。
”認知症介護と仕事の両立なんて、どだい無理。”
仕事はそんなに甘いもんじゃない。しかし、認知症の介護は、それ以上にもっと甘いもんじゃない。生きたまま、半身をもぎ取られそうになりながら、仕事も辞められない、介護も止められない、私は途方もなく、苦しかった。
母と一緒に、この世から、スッと消えてなくなりたかった・・・。
もう、楽になりたい・・・。もう嫌だ。何もかも嫌だ・・・。
ここ数ヶ月は、「母の息の根をどう止めてやろうか・・・。」と、そんな事ばかりが浮かぶ。だが、父の事を思えば、それは難しい。
しかし、父が母から離れた今なら、それは可能だ。「千載一遇のチャンス!」とさえ思えた。そして、それを私は”自分で出来る”という自信があった。
私は管理職だ。日々発生する様々な案件毎に、綿密な計画を何通りにも立案し、入念に準備をし、迅速に実践し、それなりに成果を上げてきた。目標は必ず仕留め、降りかかった火の粉は、どんな辛い思いをしても、迅速に振り払う。それが組織やクライアント、引いては自分を護ることだと良く理解している。
役所の担当者が、みるみる顔色が変わったのは、このせいだろうと思う。
そりゃそうだ、どんなに静かに穏やかに話していても、言ってみれば「介護殺人予告」または「介護心中予告」をされたようなもの。それをまた、冷静にシレッと話している私は、担当者からすれば、”ヤバい人”以上に、”異様な人”以外の何者でもなかっただろう。
しかし、そこには「7年かけて、ここまで来た・・・。」という並々ならぬ矜持と「この限界をわかって欲しい。」「どうか母と我々家族を助けて欲しい。」という、なりふり構わない一念だけだった。
役所の担当者から連絡を受けた地域包括支援センターのT主任さんが、「よく来てくれました。大丈夫。お母様の預かり先は、きっと見つけるから。さぁ、こちらへ、どうぞ。」と、私の身体を優しくさすってくれた時、私はセンターのエントランスで泣き崩れていた。
あぁ、これで母に手をかけずに済むのだと・・・。
それだけだった。
父や弟達、私の家族は、この顛末を知らない。
ずっと、誰にも言わずに来た。
弟達は、まさか介護申請に行った即日のうちに、母を施設に預けられるようになった事に驚き、「さすがは姉ちゃん!!」と喜んでいただけだ。それでいいと思っていた。
しかし、この顛末があったからこそ、私は、母を送る最後の朝、今、まさに病院で心疾患の発作と闘っている父に対して、ずっと母を介護してきた父に対して、「うちの人は死にました!!」と、そう言い放った母を、ギリギリの所で許すことが出来た。
あの時、もしも、母の収容先が決まっていなかったら・・・。
私はきっと、もう迷うことなく、母を連れ、
何もかも全てを捨てて、奈落の底へ堕ちただろう。
例え「介護殺人」だと、「介護心中」だと言われても、
家族や世間様にどんなに嘆かれても、失望されてもかまわない。
「もう、誰の理解も共感もいらない・・・。」と、そう思いながら。
1886年、ドイツの哲学者であり思想家のニーチェ(フリードリヒ・ニーチェ)は、その著書『善悪の彼岸/第146節』で、こう述べている。
その界隈では有名な一節だ。
しかし、この全文はあまり知られていない。
全文にはこうある。
私は、こう解釈する。
そして、7年の歳月をかけ、役所へ行った時の私は、すでに、深淵の底に呑み込まれそうになっていた、”怪物”だったと・・・、そう思う。
私は、認知症の母の命を奪おうとしていた”怪物”だ。
だが、こちらも怪物にならなければ、『認知症』という”怪物”とは戦えない。そう強く思い込んでいた。
現代医学でも、まだそのメカニズムが解明されていない『認知症』という『深淵』の、その ”途方もない闇の深さ”・・・ 。
それは、決して、一人では闘えないことを感じて欲しい。どんなに知恵や勇気があっても、認知症を発症した親に愛情があっても、なくてもだ。
全てを、ひとりで抱え込んで、私の様な、”怪物”になってはいけない。
そして、人としての正常な感覚が麻痺する程の深い心身の傷を負っているのは、認知症患者本人ではなく、家族介護者の方なのだと知って欲しい。
年老いた親を連れ、『認知症』という『深淵』の淵を歩き、その先にある『迎えの舟』に無事に乗せてやる為には、その道に詳しい水先案内人(ケアマネ)や、一緒に親を抱え上げ、励まし、ケアしてくれる訪看さんや介護士さん、ヘルパーさんなど、多くの人達と手を繋ぎ、助け合い、一緒に歩いていかなければ、たちまち『深淵』の淵から、奈落の底へ滑り落ちてしまう ―――。
実際、私はそうなりかけていた。
いや、妄想の中で、何度も認知症の母の息の根を止めていた私は、間違いなく”怪物”だ。そして、それは今でも、私の「心の深淵」で、とぐろを巻いている。MCIの父が、もし母と同じような”怪物”にまでなったら、きっとまた、私の中の”怪物”も目覚めるだろう。
でも、もう二度と、あんな思いはしたくない。
父を怪物にはしたくない。私も怪物にはなりたくない。
人として・・・、
最期まで「人として」、生き抜き、
穏やかに枯れながら、”迎えの舟”に乗れるか?
それは、要介護者の父も、介護者である私も、同じこと。
生きている限り、果てしなき挑戦なのだ。
今度は多くの仲間達と供に、”道”を踏み外すことなく、
歩いて行きたいと決意している。
全ての『認知症患者』と、その『家族介護者』に、浅はかな同情や偏見ではなく、真の理解と医療や介護の救済の手が伸びる事を願って止まない。
深淵を覗く者たちへ。
供に頑張ろう。