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【書評】{高階秀爾リスペクト|西洋美術ファン}×ギリシャ神話好き には堪らない一冊。「ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?」。
先日逝去した高階秀爾の著作。副題は「ギリシャ・ローマの神話と美術」。図書館で通り道の棚にあったのが目に留まり、借りて読んだ。著者が高階秀爾でなかったら、おそらくパスしてた。背表紙が目端にかかることすらなかったかもしれない。手に取って分かったが、近年(2000年以降?)増えてきた「新書だけど頑張って図版フルカラー」な本。どこを開いても名画がカラーで飛び込んでくる贅沢さ。
驚異的な量の著作の中で、これが氏の代表作として挙げられること(たとえばどこかの著者プロフィールで取り上げられるなど)はないだろう。そう思うと逆に気楽に読めるしコメントできる。そう思っていた。ところがどうして、とんでもなくツボだった。こうして正面切った書評を書かずにはいられないほど。どうしてこの本が面白いのか。考えて浮かんだのが、この記事のタイトル。そういうことである。
高階秀爾のファンであっても、他の著作の陰に隠れ、この本にたどり着く/手を伸ばすことは案外ないかもしれない。そういった点も、今回noteで書評を書く動機となった。僅かでも掘り起こせれば。
ツボにハマった本だとよくあることだが、いざ読書記録や書評を書こうとすると、次から次へとトピックが湧き出て、作業が収束も終息もしない。そんな状況では、キレイに総括するのも気が引ける。これはこれで厄介。ということで、書評と称したものの、以降に書く内容にまとまりはない。読んでて浮かんだこと・読後浮かんだこと・書いてて浮かんだことの雑記・寄せ集めである。この方が、多神教の世界であるギリシャ神話とマッチしてる、と言ったら、詭弁だろうか。ただ、多神教の神話は決して華麗に体系だっている訳でも全ての辻褄があっている訳でもなく、逆にそこが魅力であることには、多くの方に頷いていただけるだろう。前置きはここまで。
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最初の「はじめに」で、本書を読み解くのに必須な最低限のことが伝授される。それは、現在われわれの目にする/耳に届くギリシャ・ローマ神話の神々の名は、現地のギリシャ語だったりラテン語(要は古代ローマ世界共通語)だったり、場合によっては英語だったりと、シーンや作品により様々ということ。ゼウスがユピテルでジュピターとか。このことをガッチリ認識しておくと、意外にいろいろなシーンで洞察が働くようになる。個人的には特に惑星名が、腹落ちする。
脱線するが、レスリングのグレコローマンスタイルの「グレコローマン」はフランス語の「ギリシャ・ローマ」。てっきりラテン語だとばかり思っていた。今回この機にググって確認して知った。
さらに脱線ついでに、同じオリンピック競技の名前関連で思うこと。「シンクロナイズドスイミング」が「アーティスティックスイミング」に変わった件。広く流布した名前だったのにパタッと変更されたことが、いまだ多面的にムズムズする。たとえば「シンクロ」と略せ親近感が湧く感があったのが、略しようがない名称になってしまった。このマイナス影響、競技の繁栄という点で軽視できないと思うのだが。
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第1章は、全体共通の序奏。第2章以降展開される個々の神やそのイマージュ、エピソードの解説の前に、古代ギリシャ・ローマ時代の「美の思想」「美の基準」を教わる。これが、俗に言う(最近は言わないのかもしれないが)中世暗黒時代の雌伏を経、ルネッサンス運動/時代で掘り起こされリバイバルし、多様に広がり発展し、現代まで引き継がれている。(本当はもっと深いのかもしれないが)言ってることはシンプルで、「人体の調和比率(7等身とか8等身とか。これをカノン(規範)と言うらしい)」「コントラポスト(モデル的決めポーズ)」「衣装表現(衣服のヒダへの尋常ならざる拘り)」。読んでて、なるほどとなる。そしてこの観点は、作る立場でも鑑賞する立場でも共通するポイント。今風に言うとその両者を橋渡しする概念。もうここを読んだだけで、「当たり」本を引いた気分。
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2章以降の章立て。一瞥して分かる通り、(様々な女神や人間の女性に様々にちょっかいをかける)ゼウスを除き、他は主だった女神の特集。「西洋美術(ルネサンス以降の美術)」になぜ女性の裸が多いのかなど、西洋美術ファンなら知っている方も多いと思うが、その手のトピックが端的だが丁寧に解説されていく。マルスやヘラクレスなども登場するが、基本女神との絡みで。
二人のヴィーナス
「神々の王」の恋物語 —ゼウス
悩み多き女王神 —ヘラ
女神たちの美のコンテスト —アテナ
厄災の卵を産んだ娘 —レダ
残酷純潔な月の女神 —ティアナ
追い回される娘 —ガラテイア
花を差し出す女神 —フローラ
黄金の誘惑 —ダナエ
全頁面白かった本書だが、中でも特に面白かったのは、第6章レダの章。ギリシャの2大長編叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』が、「ヘレナの略奪」など各シーンを象徴する名画を画像引用し、見事に語られる。思うに、並みの作家・ライターが同じようなことをしようとしても、例え西洋絵画に造詣が深くても、こう見事に文章化はできないのでは。
※生成AIを使うと(基本このケースではアシスト的な使い方の範疇になるのだろうが)どうなるのかは、分からない。ただし、その場合、そのAIが、「この本その他、高階秀爾の言説を、間接的なものも含めソースとして一切引用していない」という前提/保証が明らかでないと、比較はできない。
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あとがき より。本書のインフォメーション。
本書は、2013年5月から8月にかけて、東京の日経ホールで行われた日経アカデミア講座「ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?ギリシャ・ローマの神話と美術」全10回の講義内容を大幅に書き改め、再編集したものです。
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同じく あとがき より。
一口に「ギリシャ・ローマ神話」と言っても、古代においては、そのようにまとまった書物があったわけではありません。~(略)~多くの~(略)~文献のなかに、さまざまなかたちで記されているだけです。そのなかで、神話の全体像を知るのに最も便利なのは、ローマの詩人オヴィディウス(紀元前43~後18)の『変身物語』(『変形譚』とも訳される)でしょう。~(略)~そのため、講義にあたっては、まずこれを基本文献として指定し、
この説明も、非常にありがたい。かなりのギリシャ神話通でも、意外にこのことを知らなかったりするのではないだろうか。なお、Wikipedia「ギリシア神話」でもこのオヴィディウスは紹介されているが、記事そのものが書き込まれ過ぎてて、重点や位置づけ・全体観がよく分からなくなってる(Wikipediaあるある)。参考までに、↓↓はオヴィディウス『変身物語』の方のja.Wikipedia。日本語翻訳書の刊行バリエーションが分かる。
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あとがきの後に、参考資料が付属。p.221-220 見開き。
「本書に登場する主な神々と人物」
本書で紹介された神とその出現箇所がパッと分かる。索引の一種。
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裏表紙は、グスタフ・クリムト《パラス・アテナ》1898。本文ではp.113-114に掲載。一目見たら忘れることが難しいほど強烈な絵。イメージは頭の中にこびりついていたが、タイトルや描かれた人物が誰か、知らないままだった。これ、アテナだったのか。ということを、この本で知った。知ってるようで知らない、あるいは、イメージだけ頭の中にあるけどそれのみなケースの典型だった。
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この本に関連して、調べてみたこと。個人的に、対象の本を読んで記録するだけでなく、同時にふと思ったことも調べ記録しておくのが好みである。
少し気になり、「ミロのヴィーナス」をタイトルに含む本が、どれくらい国内で出ているか、調べてみた。版元ドットコムでキーワード検索してみた。ところが意外なことに、この本1冊しかヒットしない。念の為「ミロのビーナス」で検索したが、そっちはゼロ。やはり意外。考えたが、本のタイトルではなく記事のタイトルなら、沢山ヒットするのだろう。
似たことをもう一丁。「ミロのヴィーナス」が、国立国会図書館(NDL)でどのように典拠管理(件名等の用語統制)されているか、調べてみた。NDL Authorityから検索。こっちはこんなものか、という感想。実際には、ここでヒットして出てきたタームでうまく目的に合致する本や記事が検索できるかどうかだが。参考までに、この本のNDLデータ上の件名付与は、こうなっていた。
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この「小学館101ビジュアル新書」シリーズからは、他にも高階秀爾の書いた本が出ている。NDLで探すと
どうやら他に5点存在する模様。中には同じようなタイトル「ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はなぜ傑作か?(副題:聖書の物語と美術)」もあった。これも次に探して読もうと思う。なお、その内容は、
2013年9月~10月に行われたNHK文化センター講演「聖書の図像学 --物語とイメージ」(全7回)をもとに、大幅に加筆修正。
とのこと。すると、2013年に高階秀爾が講師を務めた2つの講座が、それぞれ新書になり刊行された、ということとなる。
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別件だが、いま、この12月に鑑賞した東京国立博物館の2つの展覧会のnoteも書いている最中である。そちらは時間がかかり未だ書きかけで、リリースできないでいる(年内に仕上げてリリースしてスッキリするつもりだったが、雲行きが怪しい。。)。そんな中、この本で知った西洋古典美術の美の基準でその展覧会を分析したら面白そうだなどと、妄想が追加されてしまう。しかしそれをやると、「沼る」ことは必至。ただでさえ筆が進んでないのに、また新たな内容を追加するのは、無謀。この件(アイデア)はまた別の機会に。忘れなければいいが。こうしてnoteに書いたので、きっと忘れずに済むだろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
以 上
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