【創作小説】ゆらゆら
序
入学式の日の昼、食堂は混んでいた。
一ヶ月前からラボにこもって黙々と制作に励んでいたらいつの間にか日付の感覚がなくなっていたようだ。これから始まる新生活への期待に瞳をキラキラさせた彼らの中に現像液の酸っぱい匂いが染み込んだツナギで突っ込んでいく勇気などなく、食堂の入口で数秒フリーズしていたと思う。
しかし彼らのキラキラに介在するのは新生活とせいぜいそのパーツだけで、ろくに陽にも当たっておらず青白い顔をした酸っぱいツナギの女こと私なんて初めから眼中になどなかった。
そうとわかると急にいつもの食堂に帰ってきたような気持ちになった。さっきまであった居心地の悪さが嘘のように吹き飛んでいくのがわかった。とは言え新入生で満席の食堂で食事などできるはずもないので立ち去ろうと視線をあげると、ふいに一人の男子学生が目にとまった。数人の男子と一つのテーブルを囲む、なんてことのない、ただちょっとタイプなだけの普通の男子学生だ。
外は穏やかな快晴。
100人くらい収容する食堂で彼一人にだけスポットライトが当たったように視線が吸い込まれたのは、春特有の琥珀色の陽射しが前日の雨でできた水溜まりに反射して彼の頬をゆらゆらと撫でているからだろうか。
直後、ふいに彼の視線が私の視線と交わった。それはおよそ1秒にも満たない一瞬の出来事だったが、どういうわけか強烈に脳裏に焼き付いた。
が、何を思うわけでもなく、当初の予定通りくるりと踵を返し、私は立ち去る。次の瞬間には今日の昼はコンビニで何か買ってラボで食べることにしようという計画と、サンドイッチかカップ焼きそばかという究極の二択に私の脳内は埋め尽くされていた。
あの光景が脳裏に焼き付いたことに意識を向ける間すらもないほどに。
ゆらゆら
夏が始まる頃、学内で簡易的な夏祭りが開催されることになった。イベントサークルの一つ上の先輩が企画したものだった。どうせ内輪ノリのものだろうと鷹を括りつつ、その日いち早く講義が終わった私は同じラボのリコに促されるまま浴衣を着て、イベント会場である食堂へ赴いた。
リコは一人っ子特有の人懐っこい性格をしていて誰とでもすぐに親しくなった。もちろん、お祭りを主催している先輩とも大の仲良しだ。そんなリコを隠れ蓑に私は甘い汁を啜っているという自覚から、リコ経由で知り合った人たちに劣等感のようなものを感じている。
食堂では既に浴衣姿の学生が集まり始めており、大阪駅まで電車で1時間の場所に位置する田舎の学生たちは、賢く数少ない娯楽に飛びつき皆缶チューハイや缶ビールを片手に談笑を始めていた。
「一人1000円です。」
入口には見ない顔の先輩と思われる女性が簡易的な受付を作り座っていた。リコは当然のように名前を呼び、挨拶をする。愛想は悪くない私も、同じように名前を呼び1000円札を手渡した。
イベントサークルの先輩たちの、
「ハタチになってへん子はジュース飲んでね。」
なんて言葉は儀式的なもので、お酒は誰でも自由に取れるようになっていて、辛うじて交流のある1回生が白い缶を持って歩いているのを見た。ほろ酔いホワイトサワーに間違いなかった。
私も迷わず氷結グレープフルーツを手に取り、スーパードライを既にプシュッとしているリコの背中を追った。お酒好きでおしゃべりなリコがこの春から始めたアルバイトは、ラウンジだ。
「あれ、お酒はハタチすぎてる子だけやで。」
私もプシュッとしようとしたタイミングで全身黒ずくめの長身の男に声をかけられた。これは同じ学部の3回生、モッチーさんだ。いつも全身黒ずくめで、首からNikonのミラーレスカメラを自慢げにかけているという、そんな認識。あとは、甘いもの好き。
「まだ7月やで。」
「2週間くらい誤差ですよ。ほぼハタチです。」
モッチーさんは口角を意地悪く上げるだけで何も言わなかった。
実は去年の誕生日は予期せずこのモッチーさんと過ごしている。今でこそほとんど当たり前になってしまっているが、去年の7月31日から8月1日にかけて、私は初めて学校に泊まるという経験をした。3日後に迫った合評会に向け制作に励んでいるうちに、終電を逃したためだ。
軽く頭を抱えながら学内のコンビニに立ち寄ると、ツナギに身を包んだモッチーさんがサークルのメンバーとタバコを吸っていた。見知った顔が多いグループだったため挨拶がてら一緒にタバコを吸い、終電を逃したことを伝えた。
「暗室作業だったんで、時間みれなかったんですよ。」
「あーあるある。俺も暗室入るとよう終電逃すわ。」
そう言ったのは同じラボの先輩。すると皆口々に制作に没頭して終電を逃したエピソードを披露し始めた。
「こういう時、どうしてるんですか。」
「え、ラボに泊まってる人いーひんの?」
「暗室やったら俺毛布とか置いてるで。使う?」
「学校に泊まるんですか?」
「俺らはトリキ行くけどな。」
「そうやな、トリキか毛布か二択やな。」
「じゃあ、毛布で…。」
先輩たちはケタケタと笑って、毛布の場所を教えてくれた。みんなが夜の街へ繰り出そうという流れの中、
「俺は残って作業やわ。」
そう言ったのがモッチーさんだった。
私たちはコンビニで夜食を買い、先輩のラボで一緒に食べた。モッチーさんは徹夜で作業なんかしなかった。私も徹夜で作業する気なんて毛頭なかったし、一人で暗室に戻って眠るなんて怖くてしたくなかった。
だから私たちはそこでセックスをした。
多分してる最中に日付が変わって、私は19歳になった。
スマホがブーブーうるさくて電源を切った。
「すごい連絡くるけど大丈夫?」
「グループLINEかな?大丈夫です。」
みんなからお祝いのメッセージが届いてるんだと思います、なんて言わなかった。モッチーさんはすごく優しかった。
一週間後くらいに学校ですれ違ったとき、
「なんで教えてくれへんかったん。」
と怒られた。よくわかんないけど誕生日だったことに気付いたらしい。行為に意味ができてしまうから嫌だった、とは言いたくなくて適当に立ち去ろうとしたけれどモッチーさんは申し訳なさそうな顔でなかなか放してくれなかった。
「来年はハタチなんで美味しいお肉、期待しときます。」
「そうやな…来年はちゃんと祝うわ。」
このやり取りでやっと納得したモッチーさんはその後、度々私をご飯に誘った。複数人の時もあれば二人の時もあったけれど、その後一度もそういうことにはなってない。親しくも親しくなくもないこの先輩に、ハタチの誕生日を予約されている。
徐々に集まりつつある見知った顔に適当に挨拶しながら過ごしていると、缶が空になった。モッチーさんは私の空き缶とリコの空き缶を当たり前のように受け取り「何飲む?」と聞いた。
リコはスーパードライ2本目をオーダー。すきっ腹の私はちょっと酔いが回ってしまったのでほろ酔い白ブドウをオーダーした。
「付き合いなよ。」
モッチーさんが二人のオーダーに返事をして立ち去ると同時に、どこからか調達してきた焼きそばをこっちに押し付けながらリコが言ったきた。もちろん、モッチーさんと私のことだ。
「気が利くし、背が高いし、あと結構モテるんやで。」
横目でチラッと見ると、確かにこの短時間でも女の子たちに囲まれているようだ。私の状態にいち早く気付きさりげなく食べ物を渡してくれるような気立てのいい女が毎日近くにいるもんだから、モッチーさんのいい所にはこれまで全く気付かなかった。
「彼氏いるし。」
「どうせまたすぐ別れるやろ。」
下唇を突き出す表情を作り、それを返事にした。リコも何も言わず私の二の腕をつまんだ。それが返事というわけだ。
モッチーさんのことは嫌いではないが、今後好きになるとは思えなかった。そもそも私は人のことを好きになんてなれないんじゃないかというのが、華々しい恋愛デビューを飾ってからというものの所見だ。
「盗られてから嘆いても知らんでー。」
はいはい、なんて言ってるとスーパードライとほろ酔い桃を持ってモッチーさんが戻ってきた。
「白ぶどうなかった…桃でもええ?」
「大丈夫です、ありがとうございます…。」
お礼を言いつつ、首を傾げる。
「ああ、これ、サークルの後輩。1回生。」
というのも、モッチーさんの後ろには長身の男子。彼は主に私に向けて「ども。」と頭を下げた。
「シシドです。」
「シシドくん。」
「はい。」
話しやすいように少し身をかがめてくれたのかもしれない。そのときやっと彼の顔を眺めた。
目と目が合い、ハッとする。
柔らかい光と穏やかな波が海馬を揺らした。無意識の産物が、遠い記憶が、波に乗って少しずつ意識という名の海岸に押し寄せてくる。
もともと切れ長の目をなくなるんじゃないかというくらい細めて笑顔を作る彼のことを私は知っていた。もうしっかりと私の脳内はゆらゆら揺らいでいる。彼の頬を撫でていたのと同じ琥珀の光のリズムで。
「ミドリです。」
「ミドリ。」
「はい。ミドリ、です。」
サ行が苦手な私はシシドなんて難解な言葉よりもミドリの文字を脳に刻みこんだ。私は彼を知っている。ほとんど確信に近い鮮明さで彼らの入学式の日のことを思い出していた。
もしかすると、世界ではあれを恋と呼ぶのかもしれない。とまで。
モッチーさんがミドリに私のことを紹介している。リコの方は顔を合わせたことがあるような雰囲気だ。そしていつもの陽気さで早速飲みに行く約束を取り付けている。
言葉は耳を通って直接記憶へと溶けた。私の五感はもう制御を失っていて、その会話を聞こうとはしない。3人が楽しげに語らう中、私だけがあの春の陽射しの中でゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。
リコの提案が実現したのはそれから実に3日後のことだった。なんだかわからないけれど家においで、とリコから雑なLINEがあって、同じマンションで暮らす私は半ば思考を放棄して部屋着のままインターホンを鳴らした。
「もう始めてもーてるけど!」
とドアを開けるリコの足元には、無数の靴が転がっている。
「あんた今日5限やったししょーがないよな、ウチらみんな3限やってん。」
頭にたくさんの「?」を浮かべながらもリコがいつもより陽気なことはわかった。もう始めてるとはどうやら、既にだいぶ飲んでいるということらしい。
間取りは1K。キッチン兼廊下の突き当たり、ドアの向こうでは男女数人が小さい木目調のプラスチックテーブルを囲んでいた。モッチーさんもその一人。そして傍らにミドリ。
小さいテーブルはどこもキツキツという感じだったが、二人の間にだけ僅かな隙間があったから座った。
「遅れました〜。」
突然の招集だったから遅れましたっていうのも変だなとも思いつつ、この場ではそれが正解な気がしてヘラヘラ笑うことを選択。みんなにはワーワー言われたがとりあえず両隣りには同じようにして「お邪魔します。」と挨拶しておく。
「ども。」
ミドリは先日と同じ挨拶をして、やはり先日と同じやり方で笑顔を作った。私も出来うる最大級のかわいい顔で応えた。本当にかわいいかは別として。
「シシドくん次何飲む?」
家主であるリコはいち早く客人たちの空の缶に気付き、声をかけて回っている。私が来る前に繰り広げられていたであろう喧騒が戻りつつある。みな思い思いに声を張り上げ始める中、横から話しかけられた。
「俺も途中参加。」
「モッチーさんも5限ですか?」
「いや、今日は講義なかってんけど制作で…。」
「ああ…。」
苦い笑みを浮かべ合う。これは学畜美大生の「お疲れ様です、お互いに。」のアイコンタクトだ。これを覚えたのはちょうど去年の夏休みあたり。終電を逃してラボで眠ることが平気になった学生だけが習得できる特殊技術だ。
「今は何を?」
「んー…、何をってわけではないんやけど。強いて言うなら『無』やな。」
「『無』…。」
金麦を片手に天井を見上げながら神妙な顔でモッチーさんは答える。
「いいアイディアが浮かばへん。ゼロ。」
「なるほど…。」
またしても渋いアイコンタクト。そんな経験はこれまで何度でもあって、苦しみがわかる分さっきよりも渋い顔になったかもしれない。お疲れ様です、お互いに。
「ま、ええ息抜きやな。こんなんも。」
「ですかね。」
そこで「お待たせ〜!」と缶やらグラスやらをトレイに乗せたリコが私に缶ビールを手渡した。本麒麟。私が缶ビールはこれしか飲めないことを熟知した上でのチョイスだ。たった数ヶ月でラウンジの売上上位に顔を出すようになった理由の片鱗を垣間見た気がした。
「ビール飲めるんですね。」
声に振り向くと、箸でグラスを掻き回すミドリ。先に飲んでる面々は焼酎に移行するらしい。私の本麒麟にグラスを軽くあてて「お疲れ様です。」と首を傾けるのがかわいかった。
「こないだほろ酔いやったからお酒飲めへん人かと。」
「ああ…あの日は、なんか酔っちゃって。」
「今日はいいんですか?」
「うん、リコん家だし。私ん家この上だし。」
「たまたま?」
「それで仲良くなったから、たまたまではないかも。」
それからリコとの馴れ初めを話した。
入学当初、リコは私とは違うグループでご飯を食べていたのだが、夜遅くまで遊びたいリコの需要と実家住みで終電が早かったリコの友人たちとの供給とが噛み合わなくなっていった。そこで白羽の矢が経ったのが同じマンションに住む私だった。
数人で遊びに行った帰り、「せっかくだし家来なよ!」というリコの言葉に頷いたことが始まり。普段であればあまり親しくない人の家に行くなんて遠慮するところだったけれど、その日はなんとなく一人でいたくないと思ってついて行った。ホームシックだったのかもしれない。
リコの家ではいろんなことを話した。話してみると案外気があって、これまでの生い立ちも何となく似てるようだった。気付けば朝になっていて、次の日私たちは一緒に登校して揃って講義中に爆睡した。
講義中に爆睡した私たちは夕方にはすっかり元気になって、今度は私の家でご飯を食べようという流れになった。リコは自分の家からたくさんのスナック菓子とお酒を持って私の家にやってきた。リコのリクエストに応えて親子丼を作っていた私はこの大量のお菓子をいつ食べるんだろう?と首を傾げた。
しかしその心配は全く的外れだった。リコはよく食べるしよく飲んだ。親子丼と味噌汁、買ってきたカット野菜を盛り付けただけのサラダをペロリと平らげて早速スナック菓子を開いた。私はと言うと、お酒は強くないしご飯を食べただけですっかりお腹いっぱいで、リコを私とは全く違う生き物のように感じた。
飲みなよ!と手渡されたのはほろ酔い、ホワイトサワー。これまでほとんどお酒を飲んでこなかった18の私はその缶を半分も飲みきらないうちに眠ってしまった。
「でね、明け方くらいに起きたらさ、リコ、まだむしゃむしゃポテチ食べてたの。私が録画してたドラマ勝手に観ながらだよ。でもね、テーブルとか全部綺麗になってて、お皿も洗ってほしてくれてあったの。そういうチグハグなところをなんか好きになっちゃって。」
「二人って全然タイプ違うけどそういうことだったんや。」
気付けば数人の先輩たちも聞いていて、時折相槌を挟んだ。
「リコのせいでお酒飲むようになったってことやな。」
「リコのお陰で飲めるようになったんですよ。」
私たちは顔を見合わせてニマニマした。
ほろ酔いで潰れた日から、私はリコとお酒の特訓を始めた。特訓なんて変な話だけれど、当時からお酒が強かったリコと予定のない日はどちらかの家でお酒を飲みながらご飯を食べるようになった、と言えばわかりやすいだろうか?
パスタを作ったらワインを飲み、お刺身の日には日本酒を飲んだりした。そんな特訓を経て今の私はお酒がそこそこ飲める方だと自負している。
ミドリが私たちのニマニマを受けて「仲良しですね。」と笑った。
リコが私を庇ってただのカルピスと入れ替えてくれたカルピスサワーもどきを罰ゲームで一気飲みした夜の話もした。私とリコだけが知っている秘密。
話している途中でモッチーさんの薬指と小指が私の薬指と小指に絡んだことには気付いていた。
私とリコの馴れ初めの話を受けてそれぞれが馴れ初めの話に花を咲かせ始める。そういう話は好きだ。指を絡め返しながらミドリとその向こうの先輩の馴れ初めに耳を傾ける。
モッチーさんは別の人と話をしている。私たちの指はカルピスサワーだ。酔っていて誰も気付かない。
ミドリと私の馴れ初めの話になったとき、また脳がゆらゆらと揺れた。あの琥珀を思い返した。
「ついこないだですよ。」
「夏祭りのときね。」
そう言いながら違うよ、もっと前に私たちは出会ってたんだよ、と思う。言葉には出さない。
今度はモッチーさんと私の話になる。
「二人は割とよくおるよな、いつから?」
「んー。馴れ初め、覚えてへんのよな。」
「最初は新歓かな…?そこからちょっとずつ話すようになった、ですかね…?」
たしかに、馴れ初めと言われると謎だ。この日から関係が変わった、という明確なきっかけはあるけれど。
「夏休み前にコンビニで会うたやん。あん時にはもう顔見知りやったもんな。」
この先輩は、あのとき喫煙所にいた面子の一人だ。モッチーさんの指がすっと逃げていった。案外わかりやすい人なんだな、と思った。
「先輩たちも仲いいですよね。」
仕方ないから助け舟を出してあげる。分かりやすく動揺しているモッチーさんは口を開かなかったけれど、先輩はサークルの話を持ち出して、モッチーさんや他の面々との思い出を面白可笑しく語り出した。
話に聞き入っているリコの代わりに私の缶とミドリのグラスを持って立ち上がった。気付いて腰を浮かせたリコにいいよ、のジェスチャーを送って一人部屋を抜けた。
キッチンの換気扇を回してポケットからiQOSを取り出す。リコの家ではここが喫煙所だ。3口ほど吸ったあたりでドアが開いた。ミドリだった。
「ごめん、お酒取りに来た?」
まだ吸い始めたばかりだったけれど吸うのをやめるため煙草を引き抜こうとすると、止められた。
「吸わせてください、それ。俺のあげるんで。」
ミドリがポケットから取り出したのは紫のメビウス、オプション付き。やはり煙草を引き抜こうとしたけれどミドリは私が吸っていたそれごと私の手から受け取った。左手で私の右手を掴んで、右手でiQOSを抜き取る形だ。
もう目的は成し遂げたはずの左手がなかなか私の右手を放さない。30秒くらい、ミドリが煙を吸って吐く姿を眺めていた。
「さっきこうしてたでしょ。モチヅキさんと。」
モチヅキはモッチーさんの苗字。モッチーさんをモッチーさんと呼ぶのは意外にも少数派。
「何のこと?」
「付き合ってるんですか?」
「だから何のこと?」
ミドリは何も言わない代わりに私の瞳を覗き込んだ。コンロの上に取り付けられた小さな青白い蛍光灯が逆光でミドリの輪郭だけを際立たせる。表情は読みにくい。
「抜けません?疲れちゃった。」
事情聴取は諦めたのかやっと私の右手を放すと、笑顔を作った。いつもの笑顔がいつもと違って見えた。メビウスに火をつけてそれを肺いっぱいに吸い込む。何の因果か、それは私の彼氏と同じ銘柄。
3日前の祭りの最中「本当に俺のこと好き?」というLINEが届いて、5分後に「メッセージを取り消しました」の通知が届いた。私は付き合った人をいつもこうさせる。
煙草を吸い終わって、どちらからともなく外へ出た。
もう皆のいるあの部屋には用がない。7月下旬。外は蒸し蒸しして一瞬で私を火照らせた。嘘だ。本当はあのときドアが開いてミドリが顔を覗かせた瞬間から、ずっと私の身体は火照っている。
「あつー。」
「アイス食べたいね。」
「コンビニ行きましょうか。」
何を話すわけでもなく、私たちは手を繋いでコンビニへ向かった。お洒落なミドリの横を歩くのに部屋着であることが恥ずかしかった。
途中リコから着信があった。着信には出ずに『コンビニでアイス買ってくる。』とLINEを入れた。嘘はついていない。
コンビニについて二人でスイカバーを買った。「夏といえばこれでしょ!」と少しだけ盛り上がった。帰り道、二人でシャリシャリとスイカバーを齧った。会計のとき離した手だったけれどいつの間にか互いに小指だけ引っ掛けて歩いた。
食べ終わると棒の部分を咥えて縁石の上をふらふら歩いた。お酒が入っている私は何度となく縁石から落ちたけれどその度にミドリが私を受け止めた。縁石如きでちょっと大袈裟な気もするが悪い気はしない。
マンションに着くと私たちは迷わずエレベーターに乗り込んだ。「4」のボタンを押す。リコの部屋は1階。私の部屋は4階。4階に着いたら廊下を一番奥まで進んだ。玄関の鍵を開けるとき、ミドリが後ろから私の腰に腕を回した。
あーあ。
鍵が開くときにそう思った。部屋に入ると電気をつけるより、靴を脱ぐより先にキスをした。
私のTシャツよりミドリのTシャツの方が汗ばんでいた。
リコの部屋と間取りが変わらないから、電気をつけなくてもわかるよ、といった感じでミドリは私の手を引き奥へ向かった。
人感センサーの間接照明に明かりがうっすらと宿る。
それを頼りにベッドを見つけると私を下敷きになだれ込む。仄かな明かりを受けミドリが動く度ゆれる弱々しい影があの日の琥珀の波を連想させた。脳はもう揺れていない。
あーあ。
もうあの光は二度と見ることができないと悟った。キスをした瞬間に淡い恋慕は消えてしまったのだ。
ミドリの腕の中で、二人の影が壁に張り付いて駆けずるのを眺めた。ミドリは優しくなかった。誰もいない学校であんなに声を押し殺した夜とは打って変わって、私たちは隣人のことも憚らず思いのままに声を出した。
途中何が悲しかったのか涙が出た。ミドリが波のように押し寄せてくるのを泣きながら受け入れた。それでも時間の許す限り、何度も何度も身体を押し付けあった。
朝方には、ベランダに並んで煙草を吸った。ミドリのメビウスをもらった。朝日が差し込んで、辺りはオレンジに包まれた。私はこの時間のオレンジがとても好きだ。
「馴れ初め。」
眩しそうに目を細めながらミドリが口を開く。
「馴れ初めの話したでしょ。」
「うん。」
「俺たちの馴れ初め、祭りのときじゃないですよ。」
無い唾を飲み込み、言葉の続きを待った。あの日の琥珀を思い出そうとしたが、壁の影がそれを邪魔する。
「暑いなー。」
ミドリはついぞ教えてくれなかった。
その後はシャワーを浴びて、冷凍庫のハーゲンダッツを食べて、ちょっと昼寝して、遅めのお昼ご飯を一緒に作って食べた。ひとしきりダラダラして夕方頃にミドリは帰って行った。
何も教えてくれなかったかわりに去り際、靴を履きながら一つ思い出話を聞かせてくれた。
その夜は彼氏と会った。別れ話をするためだ。彼は「そうだと思った。」と言った。見送らせて欲しい、と言うのでバス停まで一緒に歩いて私が先にバスに乗った。
ふと窓の外に目を向けると彼が私を見つめているのに気付いた。私が座席につくと同時にバスがゆっくりと発車する。横目には私を見詰める彼の姿。
努めてそちらを見ないよう、まっすぐ前に顔を向ける。
今までもこうして私を見送ってたんだろうか。今更気付いてももう遅いけど。
数日後の7月31日の夜は、モッチーさんと会った。そして今年は鴨川沿いの小洒落たカフェバーの個室で8月1日を迎えた。
「誕生日おめでとう。」
モッチーさんは顔を赤らめてそう言った。
「ありがとうございます。約束通り、美味しいお肉も。」
「まさかほんまにこうなるとは思わへんかったけど。」
「覚えててくれて嬉しいです。」
モッチーさんは固い顔で前髪を掻き上げた。今日、2軒目でこの店に案内されたときからこの後の展開が何となくわかっていたから、微笑を携えてモッチーさんの言葉を待った。この人は問題文だけぶら下げて答えを取り上げたりしない人だ。待てば必ず欲しい言葉を与えてくれる優しい人。
「俺と付き合ってください。」
数十秒の沈黙の後、ひねり出した言葉がそれだった。
「はい。ぜひ。」
ストレートな告白に、私もストレートに答えた。いつかこの人を傷つけることになるかもしれない。そんな罪悪感を抱えつつ、そんな日が来なければいいのにと願った。モッチーさんが私のそういう人であることを祈った。
馴れ初め
「体験入学の日の朝、早く着いちゃったんでキャンパス内をウロウロしてたんですよ。他の早く着いた人たちもそうしてたし。
外観見てもしょうがないんで部屋の中覗いて回ってたら、写真がいっぱい壁に貼ってある部屋があって。さすが美大ーって眺めてたら、すごい懐かしくなる写真を見つけてしまって。
どうして懐かしいのかわからないからよく見たくなって、窓触ってみたら開いちゃったんですよ。悪いことしてる自覚はありつつそこからこっそり忍び込んで、近くで写真を見ました。
でもなんで懐かしいのか、結局わかんなかったんです。
ついでだしと思って他の写真も眺めてたら、それ全部同じ人の作品だってわかって。全部に小さく同じ名前が書いてあったから。
この大学に入学してからその名前の人を何となく探してたんですけど…この学校には一人しかいないんやね。
じゃあ俺、帰ります。」