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【映画感想】ジョーカー2の本質考察

「アーサー、ジョーカーやめるってよ」

ダークカルトヒーローとして、
熱狂乱巻き起こす教祖的偶像的道化ではなく、
赤スーツとピエロの化粧を置く山口百恵で、
その先に巻き起こる現実。

殺人を犯した重犯罪者という厳然たる事実に直面し、
裁きを受ける、というあまりにアンドラマなシリアスを真っ向から打ち、
ジョーカーがジョーカーを俯瞰し、メタ構造を作る。

一人の男として、一人のジョーカーファンの女を愛し、
ロマンチシズムのシロップ漬けに耽溺し、
悪の華の香りに偽られた自己評価と他者評価のギャップこそが、
世間ズレした、自己都合の、独りよがりの、エゴイスティックな、
歪な愛や矜持や他者貢献欲や純粋性が発露した先の紫煙があったからこそ、
ジョーカーはそこに生まれ、アーサーの中に芽吹いたのだ。

アーサーの人間性。
それはあまりに男性性的であり、幼稚であり、
愚かで、だからこそ道化者、愚者、フール、
として身を貫いていると言えるのかもしれない。

別離した人格ではなく、
単なるペルソナの使い分けに過ぎないというところは、
作中にもあった。そこに異論はない。

しかしその一方、こんな風になってしまった要因に、
しっかりとトラウマが植え付けられており、
そしてそのトラウマを植え付けた人間の人間性に、
バッチリ鼻につくようになっているところが変わらない。
三つ子の魂百まで。ジョーカーにさえ移香しているから、
さらに別人格でないところが増強されている。

そして、
愚行は愚行を呼び、共鳴し、狂い、
熱に浮かされ、拡散されていく。

そのことはSNSなんかへの風刺と言えなくもない。

映画の作り方は前作と比較すると、
またさらに邪道の王道なプロットメイク。
2だからこそ、アーサーの心理面をさらに掘り上げ、
現実と妄想の目眩くストロボティックな擦り。
歌擦り(これは大ネタプロットへの皮肉)。

脚本の大筋はシンプルだが、
遊びをこれでもかと入れ込んでいる。

歌擦りやキザなシーンは切り抜き文化故の、
トップシーン量産化か。
パルプフィクションのダンスシーンとかみたいな、
とにかく映えるシーンを繰り出し、
妄想癖という何でもアリに、これでもかと擦り倒す。

今、本物の人間が演じているからこそできる、
ライブな演技、演技というかもはやライブ、が、
その場にキャスティングされた奇跡が、
眩いほど収められている。
のは、今の時代性を乗り越える一つの解答なのかもしれない。

作中で頻発する「エンターテインメント」
というキーワードが今回のテーマなのだろう。
世界は舞台だ、なんてシェイクスピア的な要素も相まって。

大ネタ映画、大衆向け映画の転換期であるかもしれない今、
今作のやり方は、どちらかといえば、
持つものが弱者たる現代に、
足掻いて足掻いて砕け散る、
精神性からジョーカーらしい映画であると言えるし、
王道からニッチという話の筋と、
ジョーカーを降りるというところをリンクさせ、
見事に賛否両論させる結果を出す。
というところさえ、現実も虚構も同質な結果。

ならば、残るのは何か。
それがエンドクレジットの曲に全て込められている。

エンタメを真摯に作り上げた、
純粋な道化。

哀愁も熱も全て丸抱え、
愛するファンにさえ裏切られても、
それでもやり抜く、
という徹底抗戦宣言だと捉えます。

それをかっこいいとするのはまたキザだし、
男がピカピカのキザでいられるのは、
ほんといつまでなのですかね。

あんたの時代は良かった。

なんて数年後言いたくないので、
さらに盛り上がってくれればいいと願うまで。

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