To ゆー

創作企画「あなたへ贈る物語、書かせてください
ゆー様からのご依頼
あなたのことを元にした物語
※微量ですがセンシティブな内容が含まれております。18歳未満の方、流血表現が苦手な方はご注意ください。

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アイスクリームを目にすると、あの人のことを思い出してしまう。十数年を共に過ごし、半年前に離婚した二人目の旦那。プロポーズのことばは「俺の女になれ、そして一緒に地獄に堕ちろ!」だった。世間からは冷笑されるかもしれないが、四十年近くそれからあぶれ続けていた女にとってのそれは、どうしようもなく魅力的なもので。受け入れた、というより、観念してしまったのだ。

とても脆い生活だった。人間関係が原因で仕事を転々としていた彼には、多額の借金があった。廃棄のキャベツの外っ葉を頭を下げて分けてもらわなければならないほどの日々の貧乏な暮らし。そのイライラが、全て私にぶつけられた。殴られ、蹴られ、暴言を浴びせられ。時には知らない場所に置き去りにされた。元々精神科に通っていた私の心はみるみるうちに劣悪になって。自傷行為が増えた。すると今度は「ごめんな。寂しい思いをさせてしまったんだな」とあの人は背中を抱きしめる。彼の腕の中で泣いてからしばらく日が経つと、また、殴られた。傷つけ合って、その血を舐め合って、また傷つけ合っての繰り返しだった。
それでも私はあの人のことを、だからこそ、狂おしいほどに愛していた。

今でも忘れられないし、忘れたくないとしがみついている自分がいるのだ。アイスキャンディにかじりつく、プラスチックの人工的な前歯。あの人が食べないかとよく誘ってくれた、神社の近くのお店のイチゴのかき氷。そして、あの人と暮らしていたマンションから置き手紙を残して昼逃げし、溶けてしまいそうなほどの暑さを体験した、半年前の夏のことを。



あの日、数十年暮らしていた地元の九州を飛び出した私が向かったのは、関東の県だった。遠く離れた地ではあったが、あの人の知り合いがいなくて、かつ私が頼れる親戚や友達がいる場所としてはその辺りが最も都合がよかったのだ。

だけどちょうどその時やってきていた台風は、既に私の行く末を既に暗示していたのだと思う。映画で示し合わせたようにやってくる天災とまさに同じだったし、実際にも不幸にしか見舞われなかったのだから。九州を出るのもやっとだった。運送会社に荷物の集荷をキャンセルされて。リクさんがいなかったら翌日の飛行機に間に合わなかったと思う。壊れる寸前だったあの人との生活の裏側で出会い、密かに恋をしてしまった人だ。相談する相手もいない八方塞がりの状況でつい頼ってしまって、それでも彼は「俺が運ぼうか?」と真っ先に返事を寄越した。そして、そのとおり嵐の中を車でやってきて、本を詰めたダンボールまで全部運び出してくれたのだ。でも、今度こそ終わりにしなければならなかった。本来なら愛すことすら許されない相手だ。これから遠い地で一人で生きてゆくのなら、なおさら忘れるべきだった。もう誰も傷つけたくなかった。彼らのためではなく、私のために。空港に着いて言った「ありがとう」はお別れの言葉のつもりでもあった。

飛行機の出発も結局一時間遅れになってしまった。リムジンバスも渋滞に遭い、前方で起きた事故でさらに遅延して。待ち合わせていた不動産業社からは何度も電話がかかってきたけど、満員の客席の中では出づらい。着信音に心臓をばくばくさせながら最寄り駅への到着した頃には、日はほとんど暮れていて、業者の人もとっくにいなくなっていた。さらに困ったことに、スマホのバッテリーも電話という想定外の消費があったせいでもう残っていない。業者へ連絡する術も、アパートへの移動手段を用意する術も絶たれてしまった。

涙が出てきた。神様は未来どころか、未来へ行く道筋のことすら私には保証してくれないのだと思い知らされたようで、惨めさがこみ上げてきた。ちゃーちゃんはキャリーケースの底にへばりついて動かなくなって、そのことも私の絶望を激しくさせていた。何もかも、うまくいかない。うまくできない。

泣くのをやめようと思うけど止まらなくて、そんな自分が嫌になってまた新たな涙が流れ出てきてという悪循環から抜け出せないでいると、頭上から若い女の子の声が聞こえてきた。
「あのう、大丈夫ですか」
顔を上げると四人組の女子高生の一人がこちらを覗き込んでいた。
何と言って説明しただろう。もう、自分が今口にしている言葉すら理解する余裕がなかった。とにかく起きた悲劇をまるまる伝えようと、若い女の子相手に泣きながらぐちゃぐちゃに話をした。彼女たちは少し顔をしかめながらも、相槌をしながらそれを聞いてくれた。
「ええっと、タクシー当たってみましょうか」
それからそう提案される。願っても無い援助だった。ええ、ええ、ごめんなさいね、お願いします。私は首を縦にせわしなく振った。全員で別々のタクシー業社に連絡してくれて、それで一箇所今から迎えると返答をくれたところがあった。安堵と情けなさがないまぜになるのをこらえながら、ありがとう、ありがとう、と何度も頭を下げた。いえ、それでは、と彼女たちは小さく会釈をすると、それで私の元から離れていった。私は再び、ちゃーちゃんと二人きりになった。



「ゆーさん!」
階下からリクさんの大声が飛んできて、身体がこわばってしまう。昼逃げの手助けをしてくれた彼と、私は今、故郷で恋人として一緒に暮らしていた。経済的な支援もしてもらっている。今やいくら感謝を言っても足りない相手になっていた。なのに私はそんな彼を、このところ度々苛立たせてしまっている。今も口論から自分の感情の収まりがつかなくなって二階の自室に──彼が貸してくれた部屋に閉じこもっていた。だけど怒鳴るのはよしてほしかった。あの人のことがあって、男の人の大きな声が怖くて仕方なくなっていたから。相手と距離を置かなければ傷つけられてきたという過去が、明確に存在していた。未だに、リクさんに対してもその過去を重ねずにはいられなかった。
「ゆーさん、そこで何してるの! どうしていつも逃げるんだ!」
今回のきっかけは、彼が仕事帰りにアイスを買ってきたことだった。一緒に食べよう、とダイニングテーブルに呼ばれたのだけど、向かい合ってアイスを掬い取っているうちにあの人との思い出が甦ってしまって、また、そのことを話し出してしまった。彼は私が過去のことを、あの人の話をするのを嫌っていた。君の前のご主人と一緒にされてるような気分にもなる。それに君の過去の暗い話をひたすら聞かされたって俺に何ができるわけでもないのに、ただ嫌な気持ちになるだけじゃないか。というのが彼の言い分だった。私だって彼に解決を求めているわけではなかった。ただ、理解してほしいだけだった。

彼との生活の中で一向に互いが歩み寄れない部分の一つだった。気づけばひとりでに語り出している私がいる。それで彼がおざなりな反応を常にしてくるものだから、苛立ちから感情が増幅して余計にやめられなくなってしまう。今日も最初はまだある程度長い相槌を打ってくれていたのだけど、延々と続く私の昔話についに限界になったのか、ふん、とよそを向いて鼻で笑ってきた。リクさんの癖だ。これに私はいつも傷つく。卑屈になるのだ。見下されているような、彼にとっての私の価値にひびが入る音が聞こえてくる気がして。いよいよ動揺が酷くなって、私は彼を睨んだ。
「ねえ、それやめてって言ってるじゃない」
「君だって、また前のご主人の話をしているじゃないか」
「どうして駄目なの。返事くらいしてくれたっていいじゃない」
「全部に上手い返事をしたら君はすぐに話をやめてくれるのか?」
「そうやってそっけない態度を取られてばかりじゃわからないわよ。その私の話が面倒みたいな言い方も何なの?」
「そうだよ。だって俺には知ったことじゃないんだから」
「知ったことじゃないって……どうしてそんな突き放すようなこと言うのよ!」
さすがに今の言葉は堪えた。「知らない」はあんまりじゃない。私は家族になったんじゃないの? それじゃまるで、他人みたいじゃない。いらない女、みたいじゃない。
「ねえ、私は貴方にとっての何なの?」
「はぁ? 今さら何なんだ? わからないのか?」
「わからないわよ! 証明して!」
「君はそういう、何でもしつこいところが駄目なんだ!」
「ほら、そうやって私の悪いところばかりに話を持っていって。私の質問からは逃げる。ねえ、証明してって言ってるでしょ! 証明してってば!」
リクさんがまた何か返すそぶりを見せて、しかしやめてしまう。それから熱だけが宙で行き場を失ったような静けさが、二人の間にもたらされた。私の中では五秒以上あったが、実際にはそこまで長くなかったのかもしれない。だけどその沈黙が答えなのだと受け取って、私はテーブルに手をついて立ち上がった。
「もう、いい」
足早に階段を登っていった。それで現在に至る。

階下から、リクさんは声を上げ続けている。
「俺だって、貴女の何気ない言葉に何度も傷つけられてるんだぞ。貴女だけ自分勝手が過ぎるよ! 一番逃げているのは君だ! 降りてきなよ!」
言わないでよ、そんなのわかってるんだから。自分が一番、嫌だと思っている。私は自分勝手だ。ずっと。今まで出会ってきた男に対しても、まだ高校生の時に実家に預けたきりの高校生の娘に対しても。自分勝手に愛をくれと縋り、自分勝手に切り捨ててきた。そうしておきながら、自分勝手に過去に傷つき、喚き散らす。わかっている。私はわがままで、人を傷つけることしかできない最悪な女なんだというのは。こんなのでは、愛されなくて当然だった。
わかっているのにどうして、何度間違っても変われないのだろう。



高校生の女の子に呼んでもらったタクシーの運転手は、行き先だけを確認したきり何も話しかけてこなかった。私の異様な様子に気を遣ったのか、はたまた腫物として扱うことにしたのか。……おそらく、後者だろう。少し傷ついたけれど、非難するつもりはない。こちらとしても、声をかけられて感情のままに他人に泣きつくなんて情けないことはもうしたくなかったし、何より運転手の男の目は何も間違っていないのだから。私から見たって、私は明らかにおかしくて、迷惑な客だった。
なんにせよクーラーが効いていたことが助かった。おかげで降りる頃には、体力と気力をどん底の状態からだいぶ取り戻せていた。

とはいえ入居予定の二階の部屋へ続くアパートの階段を見たときには、一瞬頭がくらりとした。病院に連れて行くときなどに、ちゃーちゃんを抱えて階段を上り下りするのが辛いだろうと考えていたから、本当は一階の部屋に住みたかったのだ。しかし不動産業者の「階段も緩やかですし、空いたときに移ればいいのですから」という返答に、それならいいやと承諾してしまった。とにかく、追い込まれていた。あの人の元を去るためには、自分とあの人を守るためには、悪い条件もできるだけ許容しなければならなかった。それにしてもこの階段、そんなに緩やかだろうか。歩道橋のそれと変わらない気がするし、目に見えて脆くなっている部分があって心もとない。そんな不安も浮かびつつも、登らないことにはどうにもないのだから、と自分を叱咤して一段一段と足を踏み出していった。

無事に登りきって、番号を確認しながら入居予定の部屋へと歩みを進める。二〇五。ようやく。だけど、開けてあると聞いていた扉は、ドアノブを回しても動かなかった。おかしいなとそのままがちゃがちゃ上下させ続ける。開かない。まさかそんな。折ってしまうのではないかと思うくらいドアノブを下に押し、外れてしまうのではないかと怖いくらい扉を引っ張った。それでも、動かない。
そうして同じことをやかましく繰り返していると、隣の部屋の玄関から人が顔を覗かせてきた。ぼさぼさとした髪の初老の男性。どちらさん、としかめ面と低い声で尋ねられる。
「すみません、あの、ここに越してきた者なんですけど」
「越してきた? そこには人が住んでるよ」
ここに来て身体が、表面は蒸し風呂に閉じ込められているようでいながら、内側からさあっと冷えてゆく感覚に襲われた。持っていた荷物がずしんとした。真実が、わかりつつあった。
「でも、確かに二〇五号室って言われていて」
「ん? ああ、だったら二〇七の間違いじゃないか。ニ、ゼロ、ナナ。そういや昨日いきなり内装工がやってきて、急いで内装やりかえてるのを見たよ」
二つ先の部屋を顎で示される。でも。ああ。それだけならば、どんなによかっただろう。その後男は、私の手元にぶら下がっているキャリーケースを見てこう言ったのだ。
「ところでそこにいるのは猫かい? ここはペット不可だよ?」


まだ全く抜けきった様子のない壁の塗料の悪臭が鼻の奥を圧迫していた。理科室の後ろの棚越しでツンと感じたことがあるカエルの死体をホルマリン漬けの瓶の臭い。目も開けきれないほどの刺激で、息も苦しい。使用禁止になったはずの有害物質による症状と同じ状態だったと思う。ちゃーちゃんは……舌を出して、口呼吸をしていた。
詐欺だった。不動産業者と名乗った電話の人物が残していたのは、ダイニングテーブルの上の「猫ちゃんのことは周りに知られないように」「集合ポストは二〇三を使ってください」「明日若い男性が初期費用を回収に来るので、一五万円を現金で渡してください」といった、およそ正式な会社のものとは思えない内容と言い回しの文書一枚だけだった。名前も知らされていない人間に大金を渡すなんてありえないことのはずだし、そもそも「訳ありな様子ですから」と、初期費用は十万で済むよう大家さんに相談しておくと言ってくれていたのに。愚かな私はここで初めて、潤む瞳で鞄の中の控えの書類にしっかりと目を通した。漢字の変換と言い、まともな日本語でない文章だったことにようやく気づいた。

おしまいだ。私はこの覚悟を遂げられなかった。いや、最初から成功の機会など与えられていなかったのだ。全て一人芝居にすぎなかった。私はただの、小学生でもわかる罠に勝手に突っ走って、見事に転覆させられた、滑稽なカモだった。
ここから、どうすればいいのだろう。諦めてこの地に留まるべきなのか。この目の痛みと息苦しさに耐えながら? 私はまだしも、ちゃーちゃんは? じゃあ、帰ってしまえばいいのか。どこへ? あの人の元へ、また殴られに? もはや帰る場所なんてない。全部、わがままに放り出したのはこちらだというのに、誰がのこのこ戻ってくるのを受け入れてくれようか。

もう、いい。もう……

ちゃーちゃんがふらふらと歩いてきて、うずくまる私のスカートの中に潜り込んでくる。この子の安全基地になれるのはもう私だけで、私が私であることを証明できる存在もまた、この子しかいなかった。彼の皮膚の裏側の内臓が、弱く、ゆっくりと伸縮するのを確認するように撫でる。そうしていると、隣の男に貸してもらったバッテリーで復活した携帯が、不意にロックミュージックと共に振動した。毟るような勢いで手に取る。画面を見ると、リクさん、とあった。リクさん。どうして。あれで終わりにしようと心に誓ったのに。受話器のマークに指が伸びていた。わなないて、一度じゃ押せなくて、痙攣するようにしてやっと通話画面に切り替わる。耳に当てる手の震えようは言うまでもない。
「……はい」
「もしもし、ゆーさん? 着いた? 心配で」
少年のように、素直な声。その短いことばだけで、塗料のために生理的に溜まっていたものまで押し出して涙が溢れてきた。
「えちょっと。大丈夫? 何かあったの」
助けて、助けてリクさんと、か細くなった声をひたすらに重ねた。

「私もう……消えてしまいたい……」



「もういいよ、そんなに一人になりたいのなら! 貴女は一人になる覚悟があるんだね? ならいい!」
いつまで経っても相槌すら返さない二階の私に、リクさんは最後にこう叫んで、それきり何も言わなくなってしまった。言い切った、というような沈黙ではなかった。物言わぬ恋人に疲弊しきったといった様子だった。

ちゃーちゃんを置いてきてしまった。今頃、懐いてきたリクさんが怒りを持て余しているのを、丸まって遠巻きに眺めているのだろうか。食べかけのアイスも、もうとっくに溶けてしまっているだろう。私は、ベッドの上で一人だった。だけど、彼が言った「一人」とは違うのは知っている。まだ遠い。これは私が望んで用意した「一人」で、そして階段を降りさえすれば、一旦は、まだ簡単に修復できる。

失ってもいいはずが、なかった。そしてその判断は私に委ねられているものではない。リクさんに一言「出ていけ」と言われたのなら、自分の意志に限らず従うほかないのだ。温情は申し分ないほど与えられていても、彼の家にいる今の私はあまりに不安定な身の上にあった。だから、権利が欲しくてたまらないのだ。彼の隣にいるための権利が。

こんな女、一緒にいて面白いわけがない。トラウマから感情を押し殺し、ロボットみたいに決まった返事しかせず。そのくせ頻繁にショートして激情をそのまま他人にぶつけ、挙げ句の果てに傷つけた相手から逃げる。いっそロボットの方がまだ優秀だ。そうなってしまえたらよかった。私はずっと、半端なままだった。ロボットにもまともな女にも、どちらにもなれなかった。
本当なら私は、一人にしてしまった方が他人を幸せにできる存在だった。罰を受けるべきだった。多くの人を不器用に愛し、最後には置き去りにしてきた罪を。リクさんの寛大さに甘えて先延ばしにするなんて、あってはならないことなのだ。
私は、許されてはいけない女だ。

わかっているのに、まだ寂しくて。まだ愛が欲しくて。自分の貪欲に、今日も膝を抱えている。同じことの繰り返しから抜け出せない。やっぱり、早く、早く。もう、いい加減に終わりにしなければ……。

その時聞いた携帯の音は、何故か半年前関東のあのアパートでリクさんからの電話を告げたものと、同じ音色をしていた気がした。同じ、蜘蛛の糸が露に光ったような音。画面が「一件の新着メッセージ」というバナーと共に光っている。触れてみると、懐かしい人の名が目に飛び込んできた。
少し古風な文体、気取った比喩。……ああ、どうして。神様はどこまでも意地が悪い。私に早く裁きを下してくれればいいのに。罰で、安らかにさせてくれればいいのに。どうしてこんな、まだ、あの人に、やさしいことばを語らせるのだろう。

「野良を拾ってもらった十数年。後悔も多かったが幸せもあった。今は豆腐な気持ちだ。忘れてしまえたら、どんなにか楽だろうか。だが、貴女が生きている。それだけで自分は充分なのだ」



故郷を出て以降の事情を聞いたリクさんは、そっか、と少し沈黙して、息を吸う音の後にこう尋ねてきた。
「……今、現金はある?」
「ある。あるわ。十二、三万」
「わかった。じゃあ、猫ちゃん連れて俺んちにおいで」
「……いいの?」
「うん。JRでこっちに帰っておいで。駅で待ってる」
「だけど……」
「とりあえずでいいから、ね。今の貴女は危うい」
冷静で、それでいて有無を言わせぬような声音。身も心もぼろぼろになっていた私には、そういう少し一方的に出された答えの方がずっと信頼できた。鼻を啜って、泣いて枯れ果てた喉で返事をした。
「うん」



リクさんと同棲を始めるとき、私は彼にこんなことを伝えていた。
「私は、人を愛した歴史を否定したくない」と。
忘れたくない、というのとは少し違って。鎖として自分を縛るものにしてしまいたくなかった。私のためにも、あの人のためにも。
そう、心に決めていたのに。果たして私はそれを、少しでも実行できていただろうか。答えは言うまでもない。いや、そこまでは既に自覚していた。けれども私が真に知らなければならなかったのは、できないふりをして、過去の悲劇に留まる言い訳にしていたことだった。自分の頭の中だけで自身を非難して、もうどうせ永遠に変わることはできないのだと不貞腐れてきた。恨めしくも愛おしかった過去を手放して、霧に覆われた未来へと歩き出すことが、怖かったから。


あの人からはいつも甘い匂いがしていた。あれは、何の香りだったのだろう。あえて呼ぶならバニラがいいかもしれない。いいえ、何か名前のあるものに分けてしまうのは惜しい。不思議な、ちょっぴり恐ろしいおとぎ話が孕んでいそうな蜜。あの甘さには、そんなとてつもなく幻想的な魅力があった。

新緑の頃の公園のベンチの右側で、貴方はうつむいて座っていた。私は蜜を求める蝶のように引き寄せられて、ベンチのもう片端に腰掛けた。目深に被ったそのハンチング帽を勝手に取ってやった。顔を見たかったし、せっかくの晴天で美しかった空の青を見てほしいと思って。あの匂いがさらに強く香った。切れ長な目の少し鈍い光が、こちらに傾いて困惑したように揺らいだ。少し話をしてから、二人してベンチを立って。一緒に街を抜けて。あったその日に、セックスをした。

連絡先を交換して別れた後、貴方は泣いたそうね。私の両腕の無数の傷のことを思って。貴方だけだった。二度目のデートで、貴方は私にアイスキャンディを買ってくれて、自分の前歯の話をしてくれた。子どものころ、父親に殴られて本当の歯が折れてしまったのだと言う。暑いとぐずる幼い弟にアイスを買ってあげたのがきっかけだった。貧乏な家で母親とも離れ離れになってしまった彼に、お小遣いをくれる人なんか誰もいなくて。父親の財布から五十円を抜き取って、それをアイス代にしたそうだ。後に問いただされた時、貴方は正直にそのことを白状した。それでも、理由も言えぬまま殴られた。祖父からも殴られた。惨い話だ、と泣きそうになった。だけど「弟はすごく嬉しそうに食べてくれたよ」と言う貴方の顔はとても幸せそうだった。結局、その笑顔に私は涙を流した。それから、また体を交わらせた。前よりももっと激しいそれを終えた後、貴方は私に「俺の皮膚をお前にやりてえ」と囁いた。そんなことを言ってくれたのは、私の人生の中で貴方だけだった。

殴られたところが痣になって増えていくのを見ながら、私は貴方を殺そうと考えるようになった。そして、その血に塗れた包丁で、すぐに自分の胸も刺してしまおうと。それほどに私は、貴方を愛していた。貴方とだけはずっと繋がっていたかった。どちらのものかわからなくなるくらいに、ぴったりと肌をくっつけて。貴方に殴られて「痛い」と感じながら、同時に貴方の痛みを受け止められるのは私だけなのだという安らぎを、何処かで感じていた。殴られることでしか貴方を安心させることができない私の無力さと、そんな無能な私の前から貴方がやがて完全に居なくなってしまうのではないかという恐ろしさから、バスタブで手首を切った。貴方と一緒に死ぬことを結局選ばなかったのは、正しいことではないと知っていたから。「今までありがとう。私のことは忘れて、幸せになって」なんて置き手紙を残したのは、それが貴方にとっては一番望ましいことなのだと思ったから。……これも、口実。言い訳だった。貴方の痛みを受け止めることより、一緒に背負うことより、自分の痛みを優先してしまったのだ。いつか貴方からの愛を失ってしまうのなら、先に捨ててしまいたかった。

マンションを出て行った私を、貴方は追いかけないでいてくれた。貴方との契りを破って、一人で地獄から飛び出してしまった私を、貴方は見送ってくれた。

こんなにも狡い私に、貴方は言うのだ。

「貴女が生きている。それだけで自分は充分なのだ」

違う。私は貴方にだって生きていてほしかった。貴方と、生きていたかった。地獄も嫌だ。どうして貴方は、私たちが其処でしか生きられないと決めつけてしまったの?

私は、貴方と、あのマンションで、笑って、生きてゆきたかったのだ。



古ぼけたアパートを立った私は、途中歩くこともできなくなってしまったが、事情を知らされていた警察や駅員さんが協力してくれて、何とか無事に故郷へ帰りつくことができた。

戻ってすぐ、かかりつけの動物病院へ行った。ちゃーちゃんを診てもらうためだ。本来なら休みの日だったのに、私から事情を聞くと何の躊躇いも見せずに「急いで連れてきなさい」と言ってくれた。彼は、水も飲めなくなるほどまで弱っていた。申し訳なさでいっぱいだった。自分よりもうんと小さくて、愛しいはずの生き物を、炎天下で連れ回してしまったこと。看護師さんにも怒られたけど、よほど私が落ち込みきっているように見えたのか、軽い注意の後は「これからちゃんと栄養を取らせてあげれば、すぐに元気になるから。そんなに自分を責めないで」と、肩を叩いてくれた。

治療が終わって病院を出ると、リクさんが玄関に立っていた。本当に、待っていてくれたのだ。だけどその車は、二日前私の荷物を運んでくれた時のBMWではなくなっていた。「車、どうしたの?」という質問に、彼はああ、頭を掻いて言った。
「レンタルしたんだ。あの後帰ってたら途端に眠気が襲ってきてね。雨も降ってたから、家まで後少しってところで滑って自損事故起こしちゃった」
「ごめんなさい。私のせいで」
「いや、いいんだ。車の代わりに、貴女が来てくれたんだから」
キザなことばとともに、爽やかに笑いかけられる。そして私は、手を包まれて「よく帰ってきてくれた。よかった」と真っすぐな瞳を向けられた。
「貴女ももう、安心して。大丈夫だから」



いつのまにか、カーテンの向こう側が明るくなっていた。壁に背を預けて体育座りのまま眠ってしまっていたらしい。涙の塩味が、跡になって貼りついているのを感じた。目を擦って、立ち上がりカーテンを開けて、振り返って部屋の戸を見た。

リクさんはいつもの喧嘩をした日の翌朝のように、まだ私に穏やかに笑いかけてくれるだろうか。今日はよくても、明日は? 一週間後は? 一年後は? お互いの髪がみんな白髪になっても、彼は私の隣にいるのだろうか。
確証はどこにもない。だけど、それでいいのだと、背後から羽衣のように差し込む朝日を浴びてそう思えた。
何が起きても、私は生きてゆける。生きていたから、此処まで辿り着いた。浅ましく、醜く。それでも確かに、私は生きてきたのだ。
それで充分だと貴方が言ってくれるのなら。今はただ、今を生きていよう。私が選んだ、彼との人生を、行けるところまで歩いてゆこう。

鎖は溶けた。私が、火に焼べて溶かした。そしてこれからも、溶かして別の何処かへ行かなければならない日が再び来るのかもしれない。

それでも、私はもう大丈夫。

新たな道を歩き出した自分と、きっともう手を降る姿は見えなくなったあの人の幸せを祈って、私の部屋の扉を開けた。

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本作品を執筆させていただくにあたり、ご依頼主様とのDMの他に、ご本人が投稿されている作品もいくつか参考にさせていただきました。
以下でご紹介と共に、お礼申し上げます。

皆様からのご依頼も、お待ちしております。

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私の物語を読んでくださりありがとうございます。 スキやコメントをしてくださるだけで、勿体ない気持ちでいっぱいになるほどに嬉しいです。うさぎ、ぴょんぴょこしちゃう。 認めてくださること、本当に光栄に思っております。これからもたくさん書こうと思っておりますので、よければまた。