神女、堕ちて
告白いたします。
あたしはある人間の男に、恋をしました。
端麗な顔立ちのその男は、元は貧しい書生でした。幼いうちに父母と死別してから、親戚の家をたらい回しにされ、その間に自分の財産もみんな失ってしまったのだそうです。やがて育ての親である伯父に酒の一興で歳の二つ上の女を女房にと押し付けられるのですが、この女がまたひどかったようで、顔も醜ければ性格も憎らしく、主人である自分を一向に敬服しないのだと言っておりました。ある日とうとう我慢が効かなくなって、このままでは祖先に顔向けができぬと奮起したその書生は、奥さんを殴って家を飛び出し、意気揚々と郷試に挑むのですが、これまでの貧乏暮しの不便が祟って、見事に落第。故郷のあばら家へ帰る道中の洞庭湖畔の呉王廟でいよいよ精も根も尽き、この世の無慈悲に嘆いていたのが呉王さまのお目に留まり、黒衣隊の烏の一卒として採用されたのです。
そうしてあたしはその男と──旦那様と出会いました。
はじめて挨拶をしたときの旦那様は、すっかり卑屈になって居りました。あたしが尽くすと言えば君子としてくにの女房に示しがつかぬと強情な事を口にし、何かにつけ「ごめんなさい」といやに慇懃に謝罪し、なんだかびくびくしているようでした。
人間界の事なんか忘れてしまってもいいのだと、あたしは旦那様に言って聞かせました。
「烏の操は、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな」
それで旦那様はようやく心を開いて下さったようで、あたしが食後の御散歩にお誘いすると、案内たのむ、と鷹揚にうなずくようになりました。
旦那様を連れて、洞庭の空へと飛び立ちました。日の傾いた頃で、湖のゆらぎ、ほとりの家々の甍が落日に燃え、君山が可憐な緑に霞んで居りました。あたしが唖々と鳴いてみせると旦那様もそれに返し、先になり後になりとつかず離れず飛翔し、疲れると岸へ帰る舟の帆にならんで止って翼を休め、顔を見合わせて微笑み合いました。やがて夜が訪れると秋月の浩々たるを賞しながら塒に帰り、互いに羽をすり寄せて眠り、朝になるとそろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃからだを洗い、それから岸に近づく舟をめがけて飛び立てば朝食の奉納があり、それを啄みました。旦那様はとても、元は人間であったと思えぬほど見事に烏になりすましていて、同時に影の形に添う如く傍についてお世話を致すあたしのまことの亭主のようでした。
しかしそれは困った事でもありました。というのも、あたしは本当は、神女であったのです。旦那様のお傍についたのは、呉王病の神様のお言いつけでございました。そのわけも実は、新婦としてお慰め申すためではなく、旦那様が禽獣に化して真の幸福を感ずる人間であるのかどうか、試すためだったのです。旦那様は明らかに、あの一日、仕合せそうでありました。つまり、神に最も倦厭せらる人間の姿でした。
けれどあたしも、楽しかったのです。
その日の午後、洞庭の湖の岸を仲間の烏と共に飛んで居りますと、兵士を満載した大舟がやってきました。みんな、あれは危いととっさに逃げて、あたしも鳴いて警告したのだけども、旦那様はまだ、自由に飛翔出来る烏の身の上がうれしくてたまらなかったのでしょう、得意げにその舟の上を旋回し続けて居り、するとまもなく舟から一本の矢がひょうと飛んで来ました。あたしがあっと、短い叫び声をあげて、迅速に飛んで行ったときにはもう遅く、旦那様は胸を貫かれ、石のように落下してゆき、その翼を咥える事ができたのは、湖に落ちてしまう寸前のことでした。そのまま颯と呉王廟の廊下まで引上げて、瀕死の旦那様を必死に介抱したのですけれども、かなりの重症で、とても助かりそうにありません。あたしは高く鳴きました。そうして数百羽の烏を集め、一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽って大波を起し舟を顚覆させ、みなで凱歌を挙げました。響き渡る声に震撼する湖上をまっすぐ飛んで、あたしは旦那様の元に引返し、嘴をその頰にすり寄せました。
「聞えますか。あの、仲間の凱歌が聞えますか」
声をわななかせてそう尋ねると、旦那様は眼をわずかに開いて、小さくひとつ、
「竹青」
その途端、ふっと烏の姿はきえうせて、あとには黒衣だけが残って居りました。
あたしは、それで気づきました。全ては、神様の仕業であったのです。
一人、神の元に帰ったあと、あたしは「どうなさったのです」と尋ねました。
「かえしてあげたのだ」
神はそうお答えになりました。
「良い機会だった。あのまま禽獣の身の上に酔い痴れていたのなら、相応の罰を与えねばならなかった」
相応の罰。その仔細はあたしも知って居りました。とても、口に出して言う事さえ恐しいほどのものです。たしかに、その刑罰を思えば、あの時に弓矢で傷つけてこらしめてやっておいた方がよかったのかもしれません。
けれども……
あたしは、旦那様が矢に射抜かれて、真剣に泣いたのです。
ともかく、旦那様はいちど人間界にかえされました。その後の生活も、昔とちっとも変わらない様子であったと聞いて居ります。その帰郷に格別うれしそうな顔を見せる者もなく、奥さんにも相変らずこき使われてばかりいたそうです。よく、あの洞庭での一日やあたしの事を恋いしく思う詩句を唄いながら、惨めな生活の合間に学問に励んでいたようですが、そのうちどうしても身辺の者から受ける蔑視に堪えかねてしまって、再び奥さんを殴って家出して郷試に応じ、やっぱり見事に落第。完全に放心してしまったようで、帰途でふたたび呉王廟に立ち寄って、おそらく残り少ない金で買ったのでしょう、羊肉を廟前にばら撒いて、無心に肉に群がる烏の中から私を探し始めました。
「行って来なさい」
その有様を見ていた神が、あたしに命ぜられました。
「いまいちど、あの男を調べなさい。遠い旅をさせて、さまざまな楽しみを与え、全く人間の世界を忘却してしまうのかどうか、私の愛すべき人間であるのかどうか、試すのです。もしあの者が私の愛すべき人間であると証明できなければ、今度こそしかるべき罰を与えねばなりません」
当然、神のご命令に背く事は許されません。それでも少し、戸惑ってしまいました。ほんとうに旦那様は、試さればならぬ人なのでしょうか。ほんとうに、間違っているのでしょうか。
しかしそのいっときの逡巡の合間に、こんな一言をあたしは聞いてしまいました。
「乃公もこの思い出なつかしい洞庭に身を投げて死ねば、或いは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない」
そんな事を言われてしまえば、もうお会いするほかありません。あたしだって旦那様に、死んで欲しくはなかった。観念してあたしは廟に、人間の姿になりすまして現れました。
旦那様はあたしが竹青であるとわかるや否や、この身体を掻き抱きました。以前よりも、痩せてしまった様子でした。あたしは胸が痛くなって、それが通じてしまうのがいやで、「いきがとまるわ」などと言っていちどその腕からのがれました。その代わりに、「もう、一生あなたのお傍に」と、神の御意志でなくあたしの意志で、旦那様に伝えました。
それからあたしは、漢陽へ行く事を旦那様に提案いたしました。これは、神のお言いつけでございます。さすがに旦那様も、その遠い旅の提案にはかなりおよび腰になったようでした。お父さんもお母さんも無いのに「父母在せば遠く遊ばず」などともっともらしい顔をしたり、「それよりも今まで乃公を馬鹿にしてきた故郷のみんなに、お前の綺麗な顔を見せて威張ってみたい」などとなかなか賛同してもらえず、あたしはやきもきしました。いま顧みればあれは、嫉妬、でもあったのだと思います。どんな心であれ、旦那様に執着を向けられるその者たちが、少し妬ましかったのです。
結局、あたしが「郷原は徳の賊なり」と論語の一節を唱えてみせた事でまいって下さったようで、旦那様はまた詩句を誦して、あたしについてゆく決心をされました。
薄衣を旦那様の肩にかけて二人して雌雄の烏となり、長江の上空を飛翔します。旦那様は飛び方をまったく忘れた様子もなく、漆黒の翼を月光に美しく羽ばたかせて居りました。夜の明ける頃に水の都が見えれば、孤洲の一隅にある小さな楼舎の家ももうすぐそこ。その洲の青草原に降り立ち、再び人間の姿となって微笑むあたしに、旦那様もまだ少しくまの消えぬ眼をほそめて、それから寄り添い合って家にはいりました。
旦那様の手を引いて、奥の部屋に行きました。試験のためにあつらわれた部屋でございました。卓上の銀燭や美酒佳肴など、洒落た装飾品や料理で飾られていて、そして室内は金糸銀糸に織られた垂幕に閉じられ、暗くなって居ります。
「まだ、夜は明けぬのか」
旦那様はその思惑にまったく気づかぬ様子で、素っ頓狂な事を聞いて来ました。
「あら、いやだわ」
あたしは顔を赤くして、小声で言いました。
「暗いほうが、恥かしくなくていいと思って」
「君子の道は闇然たり、か」
それでも旦那様は、それとも単なるてれ隠しだったのでしょうか、相変らず噛み合わない洒落を言って、さらに古書の言葉を引用して、
「よろしく窓を開くべしだ。漢陽の春の景色を満喫しよう」
垂幕を排して窓を押し開いてしまいました。
もう朝日は形を成していて、黄金の光が颯っと射し込んでまいりました。鶯の百囀が聞えるのと共に、庭園の桃花の咲き乱れるさまや、かなたの漢水の小波のきらきらと躍っている様子が飛び込んで来ます。
旦那様は、ほう、と息をつきました。
「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、一度見せたいなあ」
あたしははっとして、旦那様の方を見ました。痩せた背が、うなだれているのがわかりました。
おしまい、のようです。
「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える」
あたしはそう告げました。旦那様よりは幽かな、しかし長い溜息をもらして居りました。振り向いた旦那様は当惑しきった様子で、そんな事は無い、と抗弁をされます。
「あれは乃公の学問を一向に敬重せず、よごれ物を洗濯させたり、庭石を運ばせたりしやがって、その上あれは、叔父の妾であったという評判だ。一つとして、いいところが無いのだ」
あたしは神の教えを、言って返します。
「その、一つとしていいところの無いのが、あなたにとって尊くなつかしく思われているのじゃないの? あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠の心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。奥さんを憎まず怨まず呪わず、一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りなさい」
まるで、演劇でも暗誦してみせた気分でした。どれひとつとして、あたしの言葉ではありませんでした。しかし旦那様は、十分に狼狽してしまった様子で、より大きな声をお挙げになりました。
「それは、ひどい。あんなに乃公を誘惑して、いまさら帰れとはひどい。郷原だの何だの言って乃公を攻撃して故郷を捨てさせたのは、お前じゃないか。まるでお前は乃公を、なぶりものにしているようなものだ」
まったく、旦那様のおっしゃるとおりであると思いました。それゆえに、いえ、ならばその資格はないというのに、あたしはその言葉に傷つきました。あたしの本心を伝えられたのら、どんなにかいい事でしょう。神にも人間にも、大した違いはないのだと、あたしは旦那様によって気づかされていました。どちらも高貴である事に憩おうとしているのには変わりないではありませんか。それならば、どんなものにであれ、憧れ、なりすまそうと正直に着飾る人間の方が、あたしにはよっぽど尊く感ぜられた。あたしはやっぱり、この男を愛していたのです。
あたしは、みずからの正体をみんな明かしました。自分が神女であった事。旦那様が本当に烏の身の上を羨望しているのかどうか調べてみるよう、神に内々に言いつけられていた事。旦那様のお顔を見ぬよう、漢水の流れが光るのだけをまっすぐ見つめたまま言いました。
「あなたは、神の試験には見事に及第なさいました」
なぜ、神だけは、人間を試す事が許されているのでしょう。
「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです」
なぜ、人間は、そのような泥くさい人生を歩む事しか許されぬのでしょう。誰が、決めたのでしょう。
「学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています」
なぜ、人間は、愛すものを決められなければならないのでしょう。なぜ、神に愛されなければならないのでしょう。あの御方の言う「愛する」とは、きっとただの憐れみです。決して脅かされる事のないところから、愛憎に一喜一憂して生きる無力な人間を見下しているだけです。そうでなければ、なぜご自身の傍に置くのは禽獣であるのでしょうか。
俗世間を嫌い、逃亡しようとする姿は、本当にきたないのでしょうか。あたしにはどうしても、その方が美しく思えるのです。
けれどもあたしは、このあまるほどの思いを、ひとつも旦那様にお伝えすることはかないませんでした。結局神に言いつけられたとおりに、帰りの舟の案内をして、
「さようなら」
と、楼舎と庭園と共に旦那様の前から姿を消してしまいました。
神に事のあらましを報告した後、あたしは暇をもらい、烏になって旦那様の故郷の家へと飛んで行きました。一目旦那様を、遠くからでもいいから見届けたかったのです。本当に最初は、その願いだけでした。
しかしその家を見て、あたしは愕然としてしまいました。ひどい散らかりようではありませんか。外からでもわかるほどにほこりが舞い、洗い物すらろくに片付けられていないのです。
あたしは思わず人間の姿になって、家の戸を叩きました。まもなく、髪がぼさぼさで、色黒い左頰を腫らして瘦せこけた女が戸口から出てまいりました。
「もし、魚容さんはいらっしゃいますか」
女は、低い声で答えて、
「ああ、あの人なら、しばらく帰ってませんよ。あたしをぶって、出て行ったんです」
そうですか、と相槌を打って、それから何も言えずに黙ってつっ立って居りますと、突然女が、ふん、と鼻を鳴らして笑いました。
「なるほどね。女に会っていたのか」
何を言っているのか、すぐにはわからず、あたしは顔を上げました。
「まったく、あれほど君子の道がどうだのうそぶいてばかりいながら、あの男は家の事をみんなほったらかしにして女と遊んでいたのね」
ぞわりと、顔が赤くなる感覚がしました。つまりこの女は、旦那様があたしと浮気をしていたと思っているのでしょう。いえ、あたしのしたことは神の指図とはいえ、誘惑ですから、まったくの間違いであるとは言えません。けれども旦那様は。旦那様は、最後まで故郷のこの女房を。
「ああ、けがらわしい」
……あたしは旦那様よりもずっと、辛抱のきかない性分をしていたのでしょう。気づいたときには、その女を殺して居りました。そのまま、特に恐怖も後悔もなく、急いで死体を捨て、家の掃除を始めました。
半分ほど進んだところで、裏口に人影が現れました。旦那様でございました。
「あら、おかえり」とあたしが出迎えると、旦那様は「やあ、竹青!」と声を上げました。
「何をおっしゃるの。あなたは、まあ、どこへいらしていたの? あたしはあなたの留守に大病して、ひどい熱を出して、誰もあたしを看病してくれる人がなくて、しみじみあなたが恋いしくなって、あたしが今まであなたを馬鹿にしていたのは本当に間違った事だったと後悔して、あなたのお帰りをどんなにお待ちしていたかわかりません」
部屋を掃除するときに考えていた言いわけを旦那様にお話ししながら、あたしは高揚して居りました。あたしの考えた言いわけうちの、ただの一つも考えた事のないあの女の、何を憐れんで愛せばよかったと言うのでしょう。なにが、神様。労苦を強いるあのさまの、何を尊べばいいと言うのでしょう。やっぱり、旦那様と、あたしは正しかった。旦那様の腕の中でそう強く思いました。
いまに、見ていなさい。
あたしが、信実の愛を証明してみせます。
「あなたのお傍に一生置いて下さいな」
ああ。けれども。
なぜあたしは、いまになって、このような懺悔を行なっているのでしょうか。