姫路まさのり「障がい者だからって、稼ぎがないと思うなよ。 ソーシャルファームという希望」
障害者の働く場所というと、小さな作業所で、内職のような仕事を黙々とやっているイメージがありました。割りばしの袋詰めをしたり、紙細工をしたり。
私も以前はそんなイメージでした。でも今は違います。
福祉の製品だから、ちょっと迷うけど買ってあげよう、じゃなくて、お気に入りだから買いたい、話題のお店だから行ってみたい、そんな感じのところもかなりあるのです。
この本では、その中でも特に、障がい者雇用の現場に、「どうしたら利益を上げられるのか?」というビジネスの視点を取り入れることにより、一般企業と競争できる事業を展開している4つの事業所が紹介されています。
こうした組織はソーシャル(社会的な)ファーム(企業)と呼ばれ、1970年代のイタリアで、精神科病院の患者と職員が協力してレストランやカフェを作ったことがはじまりとされているそうです。
一つ目は、京都府舞鶴市にあるカフェBONO。作業所からスタートして、利用者の工賃を上げるために、みんなのやりたいことを訊いて始めたのが、ほのぼの屋というレストランだったそうです。
提供される料理が一流シェフのものであるだけでなく、それをお客様のテーブルに運ぶスタッフ、裏方のスタッフもプロ意識が高いです。開店前の準備は敢えて職員は参加せず、利用者だけでやるそうです。
これはほのぼの屋で働く誰しもが企業理念のように反芻する言葉だと言います。本の中では利用者にインタビューしていて、実際に10万円をもらうようになってから障害年金と合わせて一人暮らしをスタートしたり、結婚して子育てをしている人もいたりします。
二つ目は、滋賀県大津市でクッキー製造販売を行う「がんばカンパニー」。1986年の設立で、年商は一時2億円にも達したこともあり、現在も1億円規模を保ち続けているそうです。
法人全体で137人を雇用、そのうち、手帳を持っている人は65人。鬱など手帳を持たない疾患者、生活保護者、母子家庭の母親なども34人いて、採用時の優先事項は「生活の転落を防ぐ事」だといいます。
現在のがんばカンパニーを作り上げた中崎氏はこんな風に話しています。
クッキーやパウンドケーキなど様々なものを作っていますが、全て、安心安全な材料を使っています。実は2億円の壁を突破した時に、その収入を支えていたのは、大規模な企業からの発注。材料にこだわらない、コスト主義の一般商品で、クッキーのハシや余りが出たら、社内販売で安く売るのだけれど、その商品ばかりは誰も買わなかったと言います。味というよりは、気持ちが分かったのだろうと中崎氏は話しています。
その後、あるきっかけがあって、「お金の為に魂を売っていた」ことに気づき、ビジネスのために、自分の子どもに食べさせたくないような商品を作るということは辞めようと決意することになります。そして、食べたい、食べさせたい商品を作ることにします。
三つ目は、アール・ブリュット。加工されていない芸術という意味で、絵画など正規の美術教育を受けていない人が、既存のルールに縛られず、自由に創作した作品のことを指し、「生の芸術」とも呼ばれています。
そして、中でも日本の作品が、世界的に高く評価されているそうです。
国内でも様々な場所で、障がいのある方の芸術が展示されているところがありますが、この本では、国内のアール・ブリュットで中心的な役割を担う「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」が紹介されています。
NO-MAの立ち上げは、福祉に関わっていく中で、余暇活動として行われていた陶芸活動で、利用者の作る作品を面白いと感じて、この魅力を伝えたいと思った北岡賢剛氏と、滋賀県立近代美術館長を務めた数年後に健康福祉部長となり、福祉と文化に携わった後に滋賀県知事となった国松善次氏によるものです。
北岡氏は、NO-MAを立ち上げた理由を次のように話しています。
障害受容の究極の形がアール・ブリュットなのではないだろうか、という気がしてきました。もちろん、あらゆる障がいを持つ人が、芸術の才能を持っているわけではないですが、その人の良さを見ようとすることが大切なのだと思います。
そして、それは障がいのある方と一緒に働く中でも、大切な考え方になるのだと思います。あらゆる障がいがある人を、同じ作業をさせることは、その人の本来の姿を見ていないことになると思うのです。もちろん、誰しもが得意なことだけができるわけではないです。私も不得意な仕事をやらなければいけない時もありました。こういう仕事だったら、自分の得意なことを発揮できるのに、と考えたこともありました。
もちろん常にそれぞれの人の個性を見て、得意な仕事をやってもらうようにするのは難しいですが、障がいのある方と一緒に働くには、この姿勢は忘れてはいけないなと改めて思いました。
四つ目は、AJU自立の家、というワイナリーです。ぶどう栽培から、ワインの醸造、販売まで手掛けています。
このワイナリーを大きくした山田昭義氏は、1942年生まれ。15歳の時に友人たちとキャンプに行き、海に飛び込んだ時に首を骨折して頸椎圧迫骨折による四肢麻痺となりました。受傷後3年間はねたきり、その後7年間も入院生活を送ったそうです。
退院後、更生援護施設に入所し、その中で、中村力氏と出会います。二人は、職員の目を盗んで酒盛りをするなどしていましたが、他の利用者が困っていたら面倒を見たり、職員の行動に課題があれば抗議するようなところもありました。
そこから少しずつ、当事者運動を始めていきます。でもそれは、悲壮感漂うものではなく、あくまでも楽しく、遊びの要素を取り込んだ行事を通し、世間に自分たちの存在を少しずつ伝えていくものでした。惨めさを切り売りし、世間の同情を誘うのではなく、同じ市民として広く姿勢を問う姿勢が根底にありました。
そこから障がい者のための下宿屋「サマリヤハウス」を始めたといいます。自立を目的とするものなので、大学生が社会に出るまでの期間をイメージして、入居期間は4年間、行動は自由ですが、自分で申し込みをしなければ、寮の食事にもありつけません。
そして次に考えたのは労働。重度障がい者でもコンピュータの入力なら体の一部しか動かなくてもできるということ。そして1984年にコンピュータの活用と衣料品のリサイクルの二本立ての作業所を立ち上げます。
そして2015年にワイナリーがオープンします。
サイトを見ると、サマリヤハウスもわだちコンピュータハウスも現在まで続いています。山田氏も顧問として役員の中に名前がありました。
どの話も、その歴史にまでさかのぼっているのですが、そうすると、まだ差別がひどかった時代のことも書かれていたので、読みづらいところもありました。
今、差別がないとは思わないけれど、ほとんどの人が理解してくれていて、たまに理不尽なことがあっても、「総論賛成各論反対」な感じかなと思います。
でもそういうことともしっかりと向き合っていったからこそ、今ある姿になれたのだと思います。
乗り越えるべきなのは、本人が持っている障がいではなくて、社会の方の障害なのだという言葉が浮かびました。
先週、家族旅行に行きました。みんなでゴンドラに乗って中腹まで登りました。とても涼しくて、平地では見たことのない野草が色とりどりの花をつけていました。写真はその時のものです。
泊まったホテルで、夕食のビュッフェに行くと、ダウン症があると思われる方が取り皿の補充をしていました。ワゴンで運び、静かに皿を重ねていました。
ダウン症の子どもが生まれてから、ダウン症があると思われる方が働いていたり、一人で行動しているのを見ると、なんとなく明るい気持ちになりました。でも、そういう未来を想像するのが難しくなってきて、すっかりそういうのを忘れていました。
どういう大人になるか分からないけれど、それでも、本人が自分に自信を持って、楽しく暮らせるように、私ができることをやるとともに、本人ができることは本人に任せるようにしていきたいと思いました。