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谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉「ネガティブ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力」

この本について、他自治体で活躍されている方がFacebookで紹介しているのを見たとき、自分が何かに追い立てられるようにして問題として認識したことにとりかかろうとしていることを、安直だと責められているような気がしました。じゃあ私はどうすればいいの。それで、すぐに手に取る気にはなれなかったのです。
そこからどんな風にこの本を手に取ることになったのか、思い出せないくらい、今はただ、この本に書かれた内容に圧倒されています。

仕事のこと、仕事ど真ん中ではなく少し周辺のこと、家族のこと、何もかも全てについて、何かしなければいけないと、いつも追い詰められているような感覚でいました。かといって、結論を急いだりすることはなく、常に頭の中に色んな問題があって、何かをしていても、意識せずとも考えてしまうような、そんな状態です。
誰にそうしろといわれているわけでもありません。

少しずつ手放そうとしていました。これは私の範疇ではない、これは私のポリシーとはずれる、私の心にひびくものではない、全てを私が担わなくてもよい。
でも、何かを終えてひと段落しようとしていたり、これは私には無理だから手放そうとすると、新しい問題が舞い込んできて、また、これも手放して良いのだろうか、と考えなければいけない、そんな感じです。

こんな状況の中、この本に、すぐに答えを出すことが必ずしも正しいとはかぎらない、と責められてように思えました。そんなことは分かっているけれど……。

ネガティブ・ケイパビリティについて、本の最初で、このように説明されています。

ネガティブ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えて置く力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面した時に、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからいままにとどめながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう。

本書 はじめに (谷川嘉浩氏)

この本は、著者3人による3回の対話の内容を収録しています。
対話の最初には、話題提供のために、イントロダクションがあります。それぞれのテーマはこんな感じです。

一回目の対話 2022/04/04 ナラティヴと陰謀論をめぐって
二回目の対話 2022/05/07 地球を覆い尽くすアテンションエコノミー
三回目の対話 2022/07/16 徳と観察をめぐって

イントロダクションは谷川氏が提供し、それに対して、他の二人が自分の言葉を、といっても、まだ意見まで固まっていない言葉を投げかけ、それに対してまた他の二人が自分の言葉を考えていく、という形で進んでいきます。
つまり、この対話そのものが、ネガティブ・ケイパビリティを持つ者どうしの対話であり、実践である、という形になっているのです。

ロシアのウクライナ進行、ワクチンの陰謀論、吉野家重役の社会人講座でのジェンダー等に関わる問題発言など、誰もが聞いたことがあるような話題から、NetFlixのドラマから、村上春樹にシェイクスピアに哲学書など、幅広い分野を事例に取り上げながら、話題に関して雑談っぽい雰囲気で、会話が続けられます。
何か話題に関して答えを見つけよう、というのではなく、ただただ話題が広がったり深堀されたりしながら、読むほうとしては理解が深まる、そんな感じです。

私自身も考えたことはいくつかはあるのですが、なんというか、うまくまとめられるものでもなく、しかも、そういう状態でも悪くないんだ、と思わせてくれる読書となりました。

いくつか思いついたことをあげてみます。

一番、自分が責められている感じを覚えるのは仕事なのですが、新しいやり方をあげようとした時に、(時代に合わないと私からは見えてしまう)既存のルールを振りかざして反対されるのは、ネガティブ・ケイパビリティが許されにくい社会だからなのではないか、ということです。
もちろん、私の力不足で説明が足りない、ということもあるのだろうけれど、その反論が冷静に話が進む感じでもない場合には、とにかく早く結論を出さなければいけないと向こうも追い詰められている可能性も考えてみたいです。

またEBPMについても、必要なこともあるが万能ではないのではないか、と最近読んだこの本を読んで思っていたのですが……

さらに、本書の中で、次のようなところを読んで、少し恐怖を覚えました。

日本でも決まり文句として「倫理が大事」とはいうわけですが、この英語圏や欧州の動向とは違っている。同じ「倫理」という言葉を使っていても、全然違うことを意味しているようだというのが調査してみてわかったんですよ
(中略)
「やった方がいい、その方がいい」という努力目標みたいなニュアンスと、「絶対的に守るべきもの」という一種の義務とみなすニュアンスのどっち寄りに立っているのか。蓋を開けてみると、結果はほぼ半々だったんです。

本書 第6章 自分のナラティブ/言葉を持つこと

一方で、割り切れないものを語り合う手法として、次のような手法が紹介されています。

パブリックカンバセーション・プロジェクト(PCP)という試みがあります。中絶を容認する・しないの対立で現実の暴力や気概も起きている地域コミュニティで、この分断を埋めるという課題に取り組んだのがPCPです。
(中略)
PCPが優れているのは、雑談からいきなり蜂張りの議論へいかないことです。ルールを課された状態で、段階を追って論争的なトピックに入っていくんですが、その中で、自分がその中絶をめぐる主題について割り切れない部分を明かす段階を必ず設けているんです。

本書 第7章 公と私を再接続するコーボラティヴ・ヴェンチャー

以前、レゴ®シリアスプレイ®を体験して、それについて書かれた本を読んだこともあるのですが、PCPよりもレゴ®という視覚的な装置がある分、やりやすい側面もあるのかなと考えたりしました。

最後に、ネガティブ・ケイパビリティに直接関わる話というわけではないのですが、ネガティブ・ケイパビリティが必要とされる事例として、紹介されていたジェンダーに関わる事例について、引用してみます。もやもやしていることを女性ではなく、男性が話していることも、とても貴重だと思います。

私がずっと気になってたことが、能力主義(メリトクラシー)の話なんですね。多くの人は自分の能力は自分で勝ち取ったものだから、これだけの地位を得て当然なんだという思考になってしまう。
 この問題が厄介なのは、ちゃんと能力で測られていないにもかかわらず、能力主義社会という「タテマエ」になっていることです。たとえば、女性はそのアイデンティティを理由に、無意識のうちに割り引いて評価され、十うんに活躍できないということが起こっている。例えば、東京医科大学の一般入試で、女性の点数が意図的に低く採点されていたという事件が、2018年に明らかになりました。こういう事件は、まだ明らかになっていないだけで、日本の至るところで起きているはずです。ちゃんと能力主義にもなり切っていないというのが、問題をさらにややこしくしている。

本書 第8章 イベントとしての日常から、エピソードとしての日常へ

この本を紹介していた方も、読み直されたことも投稿していました。本書の中で紹介されている本の中でも読みたくなったものがあったので、またそれを手に取りつつ、また他の誰かもお誘いしながら、深く迷ってみたいと思います。

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