![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159710273/rectangle_large_type_2_cf7dda1fe250196549deda6f7ca40eb2.jpg?width=1200)
どんな経験も、ちゃんと今の自分になっているよという話。
noteを始めて投稿してまだ数日。
使い方もまだよくわかってない私が、このタグを見て、「そういえば」と思っていたことがある。
私は高校生の頃からなんとなく、25歳以上の自分をイメージできなかった。
高校生の私からしたら、ハタチでもすごく大人に感じていて、通っていた塾の大学生の先生たちを見ていたら、なんとなく
「私も大学生になったら…」というのは想像していた。
働く自分もなんとなく想像できた。うちの母はバリバリのキャリアウーマンだったから、多分私も定年までずっと働いているんだろうな。
そんなことまでは想像できるけど、結婚したり、子どもがいるかもしれない20代後半からの自分が全く想像できなかったのである。
だから、なんとなく、ただただなんとなーく、私は20代で人生が終わるのかなと思っていた。
別にこの世を去りたいなんて願望は全く無かったけど、あまりにもぷつりと20代後半からのイメージが途絶えてしまったから。
晴れて大学生になり、さらに友人にも恵まれ、塾講師のアルバイトにも精を出した。
大学の時は、一人暮らしの友人の家でしょっちゅう鍋パーティーをしたり、
大学の近くの大通りで友人と大声で「ハモっていかに上手に歌えるか」選手権を開催したり、
近くの共学の大学の近くのカフェで、「オレンジデイズ」のような大学生活を送れなかったことを嘆きながら、せめて気分だけでも味わおうと共学に通う女子たちを悔しそうに眺めるなどしていた。
そしてそんななんとも楽しい大学生活も終わり、新卒で入った会社が、まあー大変だった。
同期には恵まれ、今でも交流のある子もいるし、なんなら夫ともこの会社で出会っている。
全部が嫌なことばかりだったわけではない。
ただ、配属先は同期が私の他にあと1人しかおらず、あとは全員先輩社員。
ついこの前まで、親のスネを目一杯齧りながら、狭い世界で生きて来た世間知らずのポヤポヤ大学生だった小娘は、たくさんの大人とあまり関わってこなかったのである。
塾の講師だって、教室長以外のスタッフは同じ大学生だし。
そこで出会ってしまった。
大人を怒る大人に。
思うよりも業績が上がらない先輩スタッフAさんを、上司がみんなの前で大きな声で叱責し始めたのである。
父以外の大人の男の人が、人に向かって怒っているのもそのとき初めて見た気がする。
テレビで見るくらいだろうか。警察24時とか。
Aさんは「はい、すみません…」を繰り返すばかりだった。
そして、その様子をフロアにいる他のスタッフは何も言わずに、聞いていた。パソコンに向かって、仕事を続けているふりをしているのか、手は動いてなかった。
でも多分これまでもよくあったんだろう。
また始まった、くらいの空気感もあった。
上司の叱責は、仕事のことだけでなく、その人の人格否定も混ざっていた。
聞きたくないけど、こんな狭い空間では耳に入ってくるし、自分も他のスタッフと同じようにパソコンを見つめるしかできない。
動悸がして、頭や手が冷たくなっていくのを感じた。顔色が悪くなっているのもわかるくらい。
自分が怒られている気持ちになったり、
次は自分の番かもしれないとハラハラしたり、
この時に、私は「怒鳴って怒る人」が自分にとって1番のストレスであることを自覚した。
この上司はこの後もピリピリし続けていた。
結局この他にも、休み返上で連勤が続いたことや、残業が多かったこと、慣れない営業という仕事や、会社から課せられる営業方針に納得し切れないなど、色々とあり、結局入社した年の夏にはメンタル不調になった。
仕事に行きたくない。
当時実家で暮らしており、自分の部屋のベッドでただただ涙を流して見ていた天井を覚えている。
この時には違う地方に配属になった現在の夫とお付き合いを始めていたはずだが、正直休職し出すまでのことはあまり覚えてない。
休み出したときのことや、休職までどうやって過ごしていたのか、記憶がほぼほぼ抜け落ちている。
ところどころ大きいところはさすがに覚えていて、
体調不良で休みをくりかえす私に、上司が「病院に行って診断書をもってこい」と言ったため、内科に行った。
その待合のベンチで座っていられなくなり、ただひたすら泣いていた。
何に泣いているのかも分からず、慌てて看護師さんが飛んできたのは覚えている。
診察室に入ったのかも覚えていないが、とにかく「心療内科に紹介状を書きます」と言われ、その足で心療内科にかかった。
そこで、適応障害と診断された。
どれくらい経ってからかは覚えていないが、上司にこの診断書を出すと、「適応障害ってとりあえず、つけてもらえる診断だから」「言ったらそうやって書いてもらえる」と言われ、合わせて出した退職願も「はい分かりました」とは受け取ってもらえなかった。
今になったら分かる。
私のような小娘にも、採用するのに会社にはお金がかかっているわけで、辞めると言われたら面談をし、何とか会社に留まる方法を考えてくれる。
多分、この時もそうだったんだと思う。
入社間もない新卒が2人とも辞めるかもしれない(一緒の配属だった同期も少し前に退職していた)、そういう焦りが、上司にもあったのかもしれない。
でもその当時の私は、「無理やり診断をつけてもらったんだろう」「絶対辞めさせない」そういう言葉に変換して、捉えてしまった。
その日の夜、私は実家の裏にある橋から、川を見ていた。
なんで橋の上に移動したのかは覚えていないが、立っているところからの記憶はある。
橋から川までの高さはなく、足首くらいまでの、深さのない緩やかに流れる川だ。
でも
いなくなりたいな、そう思って見ていた。
そこで母がやって来た。怒った顔と声で何やら話しながら、私を引っ張って家の中に連れて帰ってくれた。
母を待っていた自分もいたのかもしれない。
それから間も無く、会社を辞めた。
なんだか分からないけれど、なんとなくここで私の人生は大きく変わった。
あの時はその選択しかないと思っていた。メンタル不調になるとどうしても視野狭窄に陥ってしまうから。
でも、この後、大学で学んでいた心理学を使える仕事に転職し、天職かもと思えるほど打ち込めた。
当時の彼氏だった夫とは結婚し、息子も授かった。
ちなみに夫は世界一優しい仏のような、白湯のような人だし、
息子もとってもプリティーきゅるるんハピハピイケイケボーイである。
しんどいことは、まあそれなりにあるけれど、将来の目標や、今後したいことはたくさんある。
なんで高校生の自分が20代後半の自分をイメージできなかったのかはいまだに分からないけれど、
不思議な話になってしまうが、あの時に一度「そこまでの私」は終わっていて、
そこから新しくまた「私」がスタートしているのかもしれない。
え、ほんまに知らんけど。
突然のスピリチュアルで申し訳ないんですけど。
でも、自分が今のようなささやかでも、充実した日々を送れることを、高校生の頃の自分も、
あの日、橋の上にいた私も、想像していなかった。
今つらいことがあっても、未来はどうなるか分からない。
これを体験してしまったから。
大人になって、大概のことはなんとかなるもんよ。
そう思えるようになっているから。
32歳のあなたは希望を持って、生きていたいと思えるようになっていますよ。