純文学的な生き方
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『大人は判ってくれない』『ヴィレッジ』という二つの作品を紹介しました。
年代も毛色も異なる作品ですが、私にとっては二つとも「文学的」な作品に感じました。
先日紹介した小説の『三四郎』もそうなんですが、いわゆる「純文学」的な作品って、話の「おもしろさ」に重きを置いていない気がするんです。
『大人は判ってくれない』のアントワーヌも、『ヴィレッジ』の片山優も、『三四郎』の小川三四郎も、自分の生きる目的がはっきりしていないんですね。
アントワーヌは10代の学生、三四郎も20代の学生、この中では唯一、社会人である片山優も実家の借金でがんじがらめなので、自分の人生がまだはじまっていない状態です。
たぶん、このように目的が定まっていない主人公を描くと、「純文学」的な感じにならざるを得ないんでしょうね。
わかりやすいエンタメ的な作品は、主人公の進む道がはっきりしているんです。
例えば、『ロッキー』の主人公は「ボクシングでチャンピオン」になることが明確ですし、私が最近ハマっているマンガ『ブルージャイアント』の主人公の夢は「世界一のサックス奏者」になることです。
こういう物語はゴールがはっきりしているので、物語の盛り上げ方も見えやすいですよね。
「うまくいきそうで、なかなかうまくいかない」というのを上手に入れていけば、誰もが感情移入できる物語になります。
翻って『大人は判ってくれない』や『ヴィレッジ』、あるいはここに『三四郎』も含めますが、主人公が甚だぼんやりしているイメージもあります。
状況や性格によって、そうなっているんですが、自分たちではどうしようもない壁があるわけなんですね。
ただ、まだ目的ははっきりしていないので、その壁もどこかぼんやりしたイメージです。
ここがエンタメ的な作品とは一線を画す部分です。
近年の私も人生にはっきりとした目的を持っていません。
だからこそ、こういう「純文学」的な作品に共感するところがあるのだろううなぁとも思います。
「目的が決まっていない」というと、ネガティブなイメージを持たれるかもしれませんが、「ゴール」が見えていないというのは、必ずしも悪いことではないんですよね。
先が決まっていないからこそ、いろんな経験ができるという強みもあるのです。